私の先生の先生に、謝明徳と言う大師が居ます。
謝大師は60年代に、初めてアメリカにおいて気功を世に広めたパイオニアの一人です。
当初はまだ「気功」という言葉が知られていないので「チャイニーズ・ヨガ」と言う名を使ったりもしたそうです。
この謝大師の派では、房中術を非常に重視します。
前述したようにそうしないとエネルギー切れを起こして偏差を起こすからです。
こう考えると、ニュー・タイプとして十全に力を発揮していたララァ・スンがシャア大佐と陰陽一対となっていたことの意味が分かります。
彼らはシヴァ神とカーリー女神のように一つになって性エネルギーを補充しあって力を発揮していたのでしょう。
一説によると、元々ララァ・スンはセックス・ワーカーであったという説もあり、ダーキニー信仰とのつながりも感じます。
セックス・ヨガ、房中術の行によって蓄積された性エネルギーが体内を上昇し、額のチャクラに至って神となったのがあの眉間のイナヅマ描写な訳ですね。
と、実にアジアの身体哲学から見るとつじつまのあうお話なのですが、どうしてこんなにつじつまがあうのでしょうか。
その答えらしきものが分かりました。
どうやら冨野監督は、当時ニュー・ウェーヴと言う価値観を拠り所としていたそうなのですね。
これは、ニュー・サイエンスなどとも言われるようですが、要はヒッピー・ムーヴメントからさらに一歩進んだ東洋哲学の(当時の)現代解釈の思想であるようです。
80年代の流行であったようで、当時の日本中国武術のパイオニアたちがこぞってニュー・サイエンス寄りの考え方をしていて、結果武術がオカルトまがいになってしまったことを考えると実に痛しかゆしと言ったところがあります。
この、思想的な流れの根っこに居たのが、当然60年代にアメリカで気功を広めた謝大師であるので、私の受け継いだ見解がここで繋がってくるのはある意味で当然のことなのですね。
謝大師の教えでは、気功の修行を経てセックス・エネルギーを神に昇華させる修行を続けていると、最終的には肉体が失われても独立してメンタルが存続するようになると言います。
私はそのような考え方に関しては懐疑的なのですが、しかし伝統的なタオの気功の考えに寄れば、神仙は死して肉体が滅びた時に屍解仙と言って精神だけの存在に「蝉が抜け殻から出るように」進化するという考えがあるので、これは歴史的な文脈の継承としては納得のゆくところです。
この、精神だけの存在となった神仙の姿ですが、ララァ・スンは死後もそのような存在としてあちこちをウロウロしています。
また、記憶だけで書いているので間違いかもしれませんが、ガンダムのシリーズ中でニュー・タイプっぽい萌芽を見せている人々が忌の際に肉体から幽体離脱するように解き放たれてゆく姿を散見していた気がします。
そして、これらの物理の拘束から解放された人々は、どうも宇宙のお彼岸の彼方に生き続けていて、肉体の内側に居るニュー・タイプのパイロットたちがまた眉間にイナヅマを走らせて認識能力を高めた時に姿を見せる、という状態になっているようです。
このモチーフは、ガンダムシリーズのみならず冨野監督の描く作品に通底して描かれているように思われます。
彼らの存在が、インド、中華的な仙のままであるのか、あるいはその中からより徳目的に優れたブッダのような本物の覚者が現れるのかはわかりません。
ただおそらくは、いくつもの宇宙が広がっては滅びてまた生まれて広がる、という繰り返しの中に、菩薩や如来という覚者が時折現れるのであり、仏教で言うなら釈迦入滅後五十六億七千万年後に次の大覚者である弥勒菩薩が姿を現すのだそうで、宇宙世紀の時代にはまだそのクラスのニュー・タイプは現れないのでしょうね。
それまでは、中国のお寺に彫刻されているような天女や神仙たちが、楽し気に空を舞っているばかりであるのでしょう。
ガンダムの中では、あくまでセリフ上だけでの描写なのですが、ニュー・タイプに対して「死ぬまで楽しく暮らせる人達」「十字架に掛けられなくてもキリストのように生きられる人達」という言葉が使われているそうです。
私が想定しうるリアルな行者の姿と言うのも、恐らくはそのような物であると感じています。