これまで十年位、延々老荘思想を実体として行う東洋伝統身体文化の継承者としての発信をしてきました。
それは主に、陰陽思想、タオの考えを基にした視点からの発信です。
近年、そこからより踏み込んで仏教の色を強くしていますが、それもまた中国思想としての仏教、いわゆる佛教というアングルからの物になります。
なぜ改めてこのようなことを書いているのかと言いますと、これら伝統思想をどれだけ訴えても、現代人の精神には届きにくいのではないか、ということに打ちのめされることが多いからです。
きっかけの一つはSNSやコンビニ本と言った「安い」メディアで発信される情報を目にしたことです。
一言で言うと「スピリチュアル」なのですが、寄せ集めの雑多な言葉のミックストであるスピリチュアルでは、仏教やタオ、あるいはキリスト教の言葉が乱用された形で引用されがちです。
もちろん、本物の思想はそんな断片の言葉から理解が出来るような安易な物ではありません。
しかし安易なスピリチュアルでは安易に言葉を濫用します。
理解できないはずの言葉の断片をコラージュして一体どのような全体を浮かべようと言うのでしょうか、というところなのですが、これ、初めから誘導したい答えは決まっていて、そちらに叶った言葉を本来の意味とは無関係に寄せ集めているだけなので、真意はどうでもよいのです。
このような「初めから答えが決まっている」物を「信仰」と呼びます。
ここには著しいジレンマがあります。
と言うのも、タオや仏教、キリスト教の言葉を寄せ集めに引用しながら、スピリチュアルと言うのはどの教えも「信仰」していないということです。
初めから何も信じていないのに、他人が信仰している物の断片を寄せ集めて祀り上げている。
これでは中身は何も生じません。
では、その空洞の祭壇に祀られている物はなんなのでしょうか。
自己愛です。
結局のところ、スピリチュアルと言うのは自分より上位にある神や聖人、僧侶などを排してちっぽけな自分の中だけで安易に己を肯定して祭り上げようと言う自己愛の保守と言う行為を目的としているので、確たる信念を持たない多くの人に支払うものなく消費される文化であると言えましょう。
このような中で、私が継承しているタオの文化が大きく間違って解釈されている(というか使い捨てられている)ことに対して遺憾の意を感じた、というのが今回の記事に手を付けた一つの動機です。
もう一つの動機に関しては次回にいたしましょう。
つづく