前回まで、三回に渡って東西の文化の境界について書いてきました。
それらの2000年の歴史の結果、現在我々はプロテスタント派資本主義勢力の極東支部と言う文化的環境に住まっております。
確認なのですが、皆様の中にご自身の家系の家紋がお分かりの方はどのくらいおいでになるでしょうか?
それを付けた装束をお持ちの方は?
また、和服そのものをご自身で纏われることが可能な方はどれくらいおられるでしょう。
それから、ご自身がお住いの土地がかつてどの氏族によって統治されていたかご存知の方はどのくらいおられるでしょう?
私のうちの近所は鎌倉時代初期の畠山重忠公の碑石が沢山ありますので、ここが列島東側開拓史の初期において誰が支配していたかが分かります。
江戸初期には家康公が三河から江戸に向かう時に通った街道があります。
およそ毎日通っている急な坂は、東海道五十三次にある有名な坂で、そこには坂本龍馬に不義を働かれたおりょうさんの勤めていた料亭があります。
次の質問なのですが、歌舞伎や能を見て何を言っているかセリフの意味が分かる方はどのくらいおられるでしょうか。
以前にも書いたように、江戸時代と現在では日本語の発声がまったく変わっています。
歌舞伎でやっているような歯抜けの年寄りじみた発声法は、決してお芝居独特の演出ではなくて基本当時の口語であったことが資料から分かります。
このことで言うと、すでに森鴎外あたりとさえ我々現代人は会話が出来ないとさえ言われているくらい、日本語と言うのは近代で大きな変化をしているそうです。
文章にまで関して言ってしまうと世界的な識字率の常識と照らし合わせてあまりにハードルが高くなってしまうのでここでは問いません。
私自身は幕末の夢酔独言程度なら言語で読めますが、文字そのものが読めるかと言うと難しい。
何が言いたいかと言いますと、それだけ私たちは近代化のパラダイム・シフトで、過去から分断されているということです。
たかが百年程度前の当たり前のことが、いまでは何も当たり前ではありません。
明治生まれのうちの爺さんの時代などは、村にはまだ髷を結った人が居たと言いますが、そのような人たちと意思疎通をすることそのものがもう物理的に難しい文化に私たちは居ます。
結果、私たちは自分の家系も住んでいる土地のことも分からないし過去の資料も読めないどころか服さえ着ることの出来ないまでのことになっている訳ですね。
つまり、自分のことも自分のいる場所のことも何も分からないのが当たり前となってしまっている。
人生数十年の間に体験したことしか知らない。
これでは、視界の先には滝があってそこで世界は終わっていると考えていた昔の人たちとまったく変わりません。
自分が誰か、ここがどこか、世の中はどうなっているのか、何一つ分からなければ不安になっても当然です。
昨今、陰謀論にはまって安直な世の中の見方をしようとする人たちの内面には、自分が何も知らないということによる不安感があるのではないでしょうか。
この、世の中が見えないということを蒙昧と言います。
見えないので暗い。これを無明と言います。
この無明蒙昧を明かすために必要なのは、陰謀論では無くて知です。
そのようにして世界を感じることを「識」と言います。
この識を磨くことが、東洋思想の重要な本質となります。
今回の記事の最初の一つ目に、スピリチュアルは信仰だということを書きましたが、それは初めに結論ありきで一方行に答えを誘導しようとするからです。
知覚、判断、選択と言う段階が無い。
ですのでこれは学問では無くて信仰になります。
結論ありきで目的の方に誘導するというのなら方向性がありますが、哲学には方向性と言う物がありません。
基礎教養から考えて自分で答えを求めていってね、となるからです。
西洋哲学の本と言うのは沢山出ているので求めやすいのですが、これが私は読んでも読んでも分かりにくい。
なぜかというのは、これは西洋科学にありがちなことのようなのですが、蓄積によってなりたっているからです。
まず、ギリシャ哲学の時代にソクラテスがあり、プラトンが居ます。
以後の西洋哲学はすべて、この土台を基に「ソクラテスはこう記述したがこれはこういう意味だ」とか「プラトンのこの描写に対して反論がある」と言うように、古典を基礎教養としているからなのですね。
ですので、いきなりルネッサンスくらいからの哲学書を読んでも書いてあることが何を引き合いとした立場で言っているのかがまったく理解できません。
この物の考え方の蓄積というのが、西洋的常識という物になります。
そこが分かっていないと、本当の意味では西洋的思考と言う物が理解できない。
ですが、我々はその積み上げの果てにある資本主義の世界に放り込まれて生きている。
つまり、基礎的なインフラとして活用しているシステムの意味がまったく理解できていない。
しかも、民族的なアイデンティティは先に書いたように失われています。
要するに、何一つ分からないまま消費社会を生きているという状態です。まさに消費。時間と生命の消費社会。
このため我々は、自分が誰なのかもここがどこなのかもわからないことに加えて、自分が一体何をしているのかもわからないということになります。
大変なことだ。
つづく