アジアから切り離されたまま、西洋文化の表層にだけ立たされている現代日本人は伝統的なアジアの思想についてまったく理解が出来ないということを書きました。
すでに、現代日本人の多くにはアジア文化が持っていた感性を理解することが難しくなっている。
例えば、伝統的な祭祀である御柱やだんじりのような危険な奇祭を見ても、意味が分からない。
あれらは要するに、男根崇拝ですね。
以前に書いたように、男性器を巨大な神器として祀って、それが女性器である大地に到達するまでを表現している。
しかし、あれらの危険な奇祭を見届けて「よし、若い男衆、今年も猛々しいな。これならこの国も子孫繁栄、頼もしいことだ」と言う感想をストレートに抱くような感性は恐らくいまの私たちにはあまり無い。
「あーあー、なんだってわざわざそんな危ないことを、ほら転んだ、よしゃいいのに」と私などは思ってしまいます。
これは恐らく、その成立時期に存在していた民意の感性と直結していた社会がすでに存在していないからです。
男根崇拝が子孫繁栄と五穀豊穣に直結していない。
米穀が資本であった農本時代には、若い衆が荒々しく活気に満ちている姿を祭で見せれば、彼らがエクストリームな労働環境に耐えうる林業や土木、農業にその力を発揮してくれることが確認でき、終業後には丈夫な嫁さんと性交に励んで次世代の労働力を生み出してくれる、という分かりやすい感想を受け取ったかもしれません。
今は明らかにそのような社会制度にはなっていません。
このことはオルテガ・イ・ガルデス先生の産業革命以後の大衆社会への見解に詳しい。
要するに、男衆が精力に物を言わせてわっしょいわっしょい仕事をしていた時代から、大量生産の工場労働が有効とされる時代に文明がシフトした、ということです。
こうなると、性の社会的意義も変わるし、セクシーの意味も変わります。
男衆がことあるごとにお尻を見せては足腰の能力を誇示していた時代は葬り去られる次第です。
伝統的な東洋思想というのは、そのような認識から葬り去られた感性による物です。
ですので、我々現代人がその学問に触れるときには、すでに自分たちはその体系の外側に居る外様の異人であるということを忘れてはいけません。
我々はすでに古い言葉で言うバナナ族、外見は黄色いが中身は白いという現代人になってしまっているからです。
余談ですが、子供向けアニメに出てくる「バナナ」「ヤキトリ」と言いながら作業着姿に眼鏡をかけてハゲ散らかった、群れを成して悪の親玉に追従する習性を持つ小人状の群体生物の姿は、私には非常にエッジの利いたジョークに見えます。
さて、次回はようやくタオの思想の内容に触れられそうです。
つづく