さて、今回からようやくタオの思想について触れることが出来ます。
かつて、故・みなもと太郎先生が「幕末を語るには戦国時代から始めないといけない」と言って何十年も戦国時代を書き続けて完結させる前に亡くなってしまったということがありましたが、実際に西洋哲学は古代ギリシャから順番にやらないとおそらく理解できないし、現代日本人がタオを理解するためにはこれだけの前提が必要だったというのが今回の記事の趣旨です。
タオと言うのは、ご存知のように道と書きます。
この言葉を最初に明文化した人というのは老子と言う方で、およそ2000年前の中国におられました。
この人が爺さんになってもう世の中から隠棲しようと思って隠遁の地を探して西に向かって旅している時に、関所の役人に「そのたたずまいは只者ではありませんね。どうか人生の真理をお伝えください」と請われて渡したのが「道徳経」という書物だったと言われています。
この本、通称老子道徳経からこの思想はタオの思想と呼ばれるようになりました。
道徳というのは現代人が思うようなモラルのことではありません。
これこそがさんざ繰り返してきた現代人の罠で、大戦期にやたらと「道徳道徳」と帝国主義の国から強要されてこれが社会的モラルのことのように印象付けられてしまっていますが、そうではないのです。
道徳とは、タオの徳と言う意味です。
徳というのは、徳用タオルとか「この工具には徳がある」なんて言葉の徳です。十徳ナイフの徳です。
要するに「効能がある」というような意味です。ほら、倫理とは関係ないでしょう?
要約すると、この老子先生の道徳経には、タオという物がどれだけ徳のあるものか、ということが書かれています。
現代人がタイトルから想像するより、ずっと直接的で機能的なマニュアル、ハウツー本となっています。
その内容に関して有名なのが、そもそも世界はどのようにして存在しているのか、という科学的分析から始まる導入部です。
老子先生は、世界は初め混沌であったが、やがて重い物は下に落ち、軽い物は上に昇ってそこから今の世界となった、ということを書いています。
これ、つまり原形質のような物が攪拌されたということ、および重力を表現しています。
キリスト教的考え方ですと「初めに言葉ありき。光あれ」と世界が始まりますが、それはないのです。
神の存在では無くて、重力の成立から始まります。
重力が成立したあとどうなったか。化学変化が始まります。
これについては「初めに混沌から一が生まれ、一が二に分かれ、二が三になってすべてが造られた」とされています。
つまり、一であった混沌が重力で二に攪拌された結果、それらの間に濃淡が生じてそれらの物質がそれぞれ化学反応をしたことですべての物質が生まれた、ということが書かれているのですね。
この時に、下に沈んだ重い物が陰、軽い物が陽と表現されるので、これを陰陽と称します。
老子先生の見解によると、世の中には二つの要素がある、ということになります。
一つは上に書いたようにして生まれた万物、物質です。
もう一つは、その物質の内部に働く力、エネルギーです。
科学ですね。
このエネルギーのことを「気」と感じで表現しました。
この言葉は現代でも生きていて、電気、磁気、蒸気などと言うようにエネルギーには気という言葉が付きますね。
つまりは老子先生の思想は、自然科学の類から始まっているのです。
老荘にともなう性に関する考え方をどうしても理解することが出来ない現代人がいる、ということを書いてきましたが、こうして流れを追ってゆけば、その性の思想と言うのが自然科学の視点から語られる保健体育である、ということがお分かりいただけるかと思います。
そして道徳の名の通り、これら自然科学的見解から世の中を見てそこに働く気(力)から徳を得てゆこう、というのが老子先生の考えだと理解して良いかと思われます。
つづく