80年代くらいからずっと、日本の武術界の人間は貧弱だと言われていました。
一応のところ、現代武道を仮想のライバルとしていたので、いわゆる体育会系の武道クラブの学生などに己の技術が通じるかどうかという処に論点があったようですが、ここで難しいのが当時の武術界では「筋トレはしてはいけない」というルールがあったということです。
もうこれは江戸時代からの伝統だと言っても良いでしょう。
技さえあれば力は要らないのだという技信仰で、力を付けるのは誤魔化しだという風潮がありました。
邪推するに実際は、仮想敵が強そうなのでそちらと同じことを後発でしたら勝てないという負い目や、辛い練習をすることが出来ないという弱さが原因だったのではないかという気がするのですが。
とはいえ、実際に古武術に筋トレ的な鍛錬法が乏しかったことは想像に難くありません。
当時の人間と言うのは少なくとも運動不足の80年代人のような虚弱な肉体の物は淘汰されているでしょうから、肉体労働を日常的にしている人間の肉体は持っていたと推測されます。
また、山歩きなども日常的にせざるを得なかったことでしょう。
その上で、武士であるならば乗馬や水練が鍛錬法としてあったと言います。
昭和まで一般的なレクリエーションであった相撲もしかりでしょう。
私が子供の頃まではこれも一般的なことで、普通に「とりあえず相撲取ろう」というようなことがありました。
ボーイ・スカウトでもそうでしたし、学校の体育の時間でもそうでした。
公式なわんぱく相撲のような物ではなく、平素のちょっとした時間つぶし感覚で相撲でした。
キャッチボールというのもあったのですが、ボールやグラブの支度が必要です。
ちなみに当時はサッカーボールなどは目にする物ではありませんでした。
キャプテン翼が大人気になるまで、サッカーボールはいまでいうアメフトのボールくらいの存在感でした。
もう少し年上の大人たちなどはさらに相撲世代で、彼らの時代はまったく関係ない他のスポーツの部活をしていても、基礎練習で相撲をしていたなどと聴きます。
古武術の練習でも元々はそうだったと耳にしたことがあるのですが、いまの古武術人口においてはどうなのでしょうね。
相撲の地力があればこそ、最低限当時の格闘家としての力や感覚は当たり前に持っていた。
当たり観もあるし受け身も取れるわけです。
しかし、80年代半ば以降、そのような風習がなくなってゆくとどうしても古武術家……古武術愛好家は虚弱化してゆく気がします。
そのことがおそらく、当時散々嘆かれていたことであるのでしょう。
おそらくは古武術や中国武術の愛好家でラグビーや野球をやっている人間と闘って勝てる者はまずおるまいというのが定説でした。
当時は筋トレに対して武道界ですらタブー視があって、千代の富士や山下選手が稽古の他に筋トレをしているというと異端として話題になったほどでした。
そのために、平素から身体を鍛えこんでいるメジャースポーツの選手に対してだいぶ引け目があったように思います。
ノンコンタクトの空手家すら、下手をすれば一般人よりも筋力が弱かったというデータさえあります。
時代は変わって昨今ではアマチュアでも総合格闘技の選手などゴロゴロいます。フィジカルを含めた戦力の平均値は格段に跳ね上がっていると言って良いでしょう。
その中で、古武術家が相対的にどんどんひ弱になっているのは仕方がない……。
同じくひ弱の代表とされていた中国武術愛好家なのですが、これはどうなのでしょうね。
おそらく、当時は伝えられていなかった正しい練功法が伝来している派であれば体格は格段に向上していることかと思われます。
これはいわゆる西洋的な筋トレの結果ではありません。
中国武術の本質とも言える、易筋の結果です。
易筋と洗髄を持って少林拳の基礎とするのですが、これらの基本練功法が昔はこの国には伝わっていなかった。
これらさえできればもうカンフーはほぼ完成という先生さえいるくらいなので、伝来初期にはまだ秘されていたのでしょう。
でなければひ弱な中国武術家などいようはずがない。
私たちもこの部分を重要視しています。
功夫とは中国語で「TIME」、時間の意味です。
時間をかけて実力をつけてゆくので功夫です。
では何に時間がかかるのかと言うと、練功にです。
身体を鍛えたら、栄養補給と休息、すなわち養生を経ないと結果がでません。新陳代謝です。
練功法をして、養生功をする。このサイクルを教わっていないと中国武術は結果が出ない。
中国武術は身体が無くても勝てるなどというのは恐らくは日本独特の迷信でしょう。
中国の人たちの練習を動画か何かで少し見て見ればよろしい。
指だけで逆立ちをしたり、複雑な方法で様々な腕立て伏せをしたりと、キャリステニクスの宝庫であることが分かるでしょう。
あの「プリズナー・トレーニング」でキャリステニクスの言葉を広めたポール・ウェイド先生ですら、キャリステニクスは中央アジアから伝わったことや、ヨガや功夫に由来することを認めています。
だから元々、身体を作る物なのですよ。
その身体の使用コンセプトとして、発勁がある。
ただバカ力でぶん殴る訳ではありません。
そして、ただ技でやるということでもありません。
一方で、日本古武術の方はどうでしょう。
90年代からの動き信仰がいまでも続いているのではないでしょうか。
ちょっとした工夫(これを広東語で小念頭という)や小手先の技で本当に大きなことなどできはしません。
目くらましで他人に勝る程度の手品は出来るかもしれませんが、物理的な力は発揮できない。
物理的な力よりも他人に勝つことが武術には大切だ、という考えもあるでしょうが、ではそれで総合格闘技などでアベレージが高い古武術家、というのは聞いたことがありません。
身体も無ければ勝てもしないとした……なにそれ?
自己愛の反映という言葉が頭に浮かびましたがまぁ、それは置いておきましょう。
もし、武術をして個を成長させ、人生を良い物にするという考えがあるとしたら、その上での発言をします。
武術には、武術の身体があった方が良い。
それそのものが獲得した物、成長になるからです。
小手先の動作に囚われていては成長をしない。
例えば、ベンチプレスをするのに、100キロを上げるのも150キロを上げるのもフォームはおおむね変わりません。
もちろん、競技者でフォームを変える人は居ます。
反則ギリギリまでブリッジをしたり、胴体に落としてバウンドさせた勢いを使ったり。
でもそれ、純粋に150キロを上げる力を得ていると言えるでしょうか?
技で行う、というのはそういうチーティングに拘るということです。
かつてベンチをしていた時代、私はそれがいやで、ブリッジもしないしグローブもベルトも使っていませんでした。
目的が自分を鍛えることだったからです。
ですが、競技としてのベンチプレスの動画などを見ると、それらの小技を必勝法として紹介していたりします。
目的の違いですね。
前述したポール・ウェイド先生は、自分を鍛えるためにはミルクしろ、という表現を使います。
動詞のミルクとは、絞るという意味です。
自分自身を絞りあげる。
ギアやチートに頼るのではなく、ゆっくりと、正確に、ギリギリまで自分を絞り込んで正しい力を獲得しろと言います。
技に頼るのとは反対の考え方と言えるのではないでしょうか。
見た目は同じベンチプレスでも、中身の構造が変われば大きく結果が変わります。
そのための中身を作ることこそが重要だと我々は考えます。
その方法が、伝統中国武術に伝わっている内容です。
キックやパンチの見た目の工夫は中心ではない。
私たちの学んでいる物には、房中術と言う物が含まれています。
これは、生殖器官の機能を活用して内側を鍛えようと言う物です。
分かりやすいので女性を引き合いに出しますと、エッグ・ストーンと言われる石を使った練功法があります。
これは卵型をした滑らかな石で、これを女性器の中に入れて内部の膜の動きで上下させたり回したりします。
それによって、身体の内側の膜を鍛えます。
男性の場合は同じ要領の練功を男性器や睾丸で行います。
どちらも練功中の姿を(服の上から)見ていれば何の動作もしていないように見えるでしょう。
身体の中を動かしている。
単純な骨格運動の小技をしている訳では決してありません。
こういう「深い」ところの身体操法について語っている人はあまりこの国では耳にしませんが、中国人の若い友人に自分が功夫をやっていると言うとリアクションは大抵二つです。
一つは「あんた黒道(ヤクザ)か?」。
ビジネスに関係ないことには興味を持たない若いエリート中国人らしい反応です。
そしてもう一つが「あっちか?」です。
あっちというのは、すなわちセックスです。
功夫をすれば、身体の内側が鍛えられて性交能力があがる。
それを目的とするという認識が本場では普通にあるのです。
虚弱だと言われる日本の武術オタクが勝手に抱いている印象とは、恐らくだいぶ違うのではないでしょうか。