これまで、長い長い時間を掛けて綴られてきた浅田次郎先生の満州ものが完結しました。
それを聴いてまだ読んでいなかった部分を読み始めた、と以前に書いたのですが、とうとう最終巻の「兵諫」までを読み終わりました。
このファイナル・シーズンの一つ手前の「天子蒙塵」は、清朝最後の皇帝、溥儀が国を追われてさまよった後に、終には日本(というか関東軍、石原軍閥)に拾われて満州国などと言う傀儡国家の看板皇帝に仕立て上げられるまでを描いたお話です。
長いさすらいの中で、第一部「中原の虹」で主人公だった伝説的宦官の春児が溥儀への義理をはたして影から支える姿が描かれたり、また春児の兄である馬賊の大兄貴、不死身の雷兄が天命を司る秘法「龍玉」を隠して市井に身をひそめる様が描かれたり、国体の固まらぬ中で右往左往する儒者たちが描かれたり、またとうとう現れた満州移民の日本人たちの群像が描かれたりします。
日本側の登場人物たちは、この巨大な歴史の流れに過大な過ちがあることを感じてどうにかそれを避けようと赤心を尽くす軍人たちも描かれます。
彼等誠実な軍人たちと、故張作霖の旧東北軍閥所属だった英雄的馬賊たちとの駆け引きや応酬が実に雄大に描かれています。
そこに男装の麗人、川島芳子が絡んで来たりして、深刻な政治劇であるという悲惨さをあまり感じさせず、半ば武侠的なロマンを感じながら読み進めることが出来ます。
大宦官春児の義侠心や、神出鬼没の馬賊たちの切れの良い仁義に胸が高鳴り、果たして雷兄が隠し持つ、手にしたものが中華皇帝となるという秘宝龍玉は果たして誰の元にゆくのだろうか、などという神話的世界の行く末に惹きつけられながら読むことが出来ます。
しかし、当然ながら我々はすでに歴史を知っているので、龍玉を受け継ぐ皇帝などは居ないことを知っています。
となると落としどころはどうなるのか。
物語の最後の最後で、若き革命家として毛沢東が姿を現すので、すわ、これはやはりそうなるのか? などとドギマギさせられたりもします。
これらの多様な展開の中心となるのは、なんやかんや言ってやはり溥儀です。
直血ではない接ぎ木の皇帝、まれに見る兇相の持ち主、形だけ不適切な皇帝、中華を滅ぼすための役割を背負ってきた小人などとあらゆる人間に軽んじられ、自分自身でさえそう思いながらも、彼は最後の皇帝であり続けます。
驚くほどにあらゆる者に蔑まれ、貶められ続けるという可哀そうな人間でありながら、それでも彼は生まれながらに皇帝としてのみ生きてきた人間としてこの神話の中心に存在し続けます。
民国初期のこの時代、街には写真屋さんという物が出てきたのだそうです。
これは一般的な写真館だというだけではなく、高名な馬賊や軍人、革命家などの写真を売るというブロマイド屋さんであったようです。
ある日、お忍びで隠れ家を抜け出した溥儀は初めて写真屋さんと言う物に迷い込み、そこで自分の写真、自分を始めとする皇室ファミリーの写真を目にします。
生まれてこの方外に出たことなどなく、当然お金を払って物を買うことなどしたことのないかれは、驚いている店主から皇室家族の写真をくれと言ってもらって帰宅します。
以後、彼が宝物のようにして身に着けるこれら幾葉の写真を、ある日、彼の奥さんが見つけます。
すると、その中には家族の写真はあっても彼自身の写真は無い。
どうして自分の写真は持っていないの? と彼女が訊くと、溥儀は不思議そうに答えます。
「皇帝だから」
どれだけ、一個人として不遇の目に会い続けても、彼の中心にあるのはこればかりです。
バカにされても騙されても決して怒らず悲しみません。
超然として鷹揚を保ち続けます。
天子が怒れば地震が起こる。天子が泣けば雨が降る。
そうやって躾けられた彼は常に、小人たちに何をされても「自分は皇帝だから」とあり続けます。
この、もっとも弱い強者の姿に我々は眠ったまま死にゆく獅子の姿を見ることになります。
そして、彼が貶められつくして最悪に醜悪な惨劇を描いて「天子蒙塵」編は終わります。
龍玉の行方も馬賊武侠たちの行く末もまったく結論が出ないまま、最終巻「兵諫」に続きます。
その最終巻、80ページほど読んだところで気づきました。
いつまで経っても、日本人がうだうだやっているばかりで、まったく中国内部の姿が描かれない。
どころか、アメリカ人の新聞記者と言う新しいキャラクターまで出てくる。
そこで気付かざるをえませんでした。
この作品ではもう、中国の内側は描かれないのだ。
外側から、ただ見えざる世界として外国人が中国をうかがうしかなくなってしまったのだ。
あの、伝説的宦官の春児は出ません。
大武侠である不死身の雷兄も出ません。
龍玉の行方も語られません。
もはや私たち読者の目の届かないところに、中華は行ってしまっているのです。
新しく登場したアメリカ人記者の目を通して、滅びゆく、失われた中華の外観が描かれます。
それらを見ているうちに彼は、これが資本主義祖国による物であるということに気が付かされてゆきます。
これでは近代資本主義はアメリカの奴隷制と変わらないではないか!
その通り。
一方、また外から中華をうかがうことしか出来ない日本の軍人たちも、侵略に向かう皇道派の軍人たちの正体に気付きます。
彼らは同じ環境で育った身内としか関わらないまま大人になってしまい、以後何を学ぶことも出来ず、物を考える力や自浄能力を持つことを禁じられているだけの存在だと。
これ、もう完全に私が普段から繰り返し訴えていることと同じではないですか。
アメリカ人ジャーナリストは、この侵攻を進める国内の識者に対して「哲学が無い!」と心の中で罵声を浴びせます。
そして、貧しく知性の低い育ちの者が哲学など持てるわけがないじゃないかとも思います。
この辺りを読んで、私はめまいがするような思いをしました。
まさかあの大作家がこんなことを書いているなんて。
これは私がCOVIDでも発症して熱夢の中で観ている自分自身の創作物なのではないかとさえ疑いました。
恐らく、この物語の切っ先は決してアメリカに向かっているのではないでしょう。
アメリカ化し、哲学を持たず、一切の内面を持ち合わせることの無い現代日本人に向かっているのではないでしょうか。
アジアの伝統を私利のために葬り去り、迷妄の中に生きるようになったこの現代日本の愚民社会への絶望がここにある。
跪き、泣き出したいような気持になりました。
我々は一体、なんという不毛の場所にやってきたことだろう。