現代人は資本主義によって中身が西洋人化させられてしまっているので、本質的な思考が出来なくて東洋思想を理解することが出来ない人が驚くほど多い、というトピックをこのところよく取り扱っています。
特にセックスを悪だと思い込んでいて、セックスの気配をさせている物、つまりLGBTQや女性の生理の問題に「悪」だという無意識のレッテルを貼って敵視をしている人が多いという印象を受けます。
そこからさらに歪んで、性に関わる時にはことさら悪ぶらなければいけないというようなおかしな社会的抑圧さえ頻繁に目にするように思います。
セクハラの何割かはこれに当たるんじゃないかと言う気さえする。
セックスに関わるからには他人を傷つけないと自分を守れない、というようなおかしな倒錯です。
アメリカ人の多くが他人を罵倒するときに性的な言葉を頻繁に使うと言うのは恐らくこの倒錯から来ているのではないでしょうか。
この倒錯をして私は、西洋社会(キリスト教社会)の抱える根本的な問題だと思うのですが、これはエデンの園で知恵の実を食べた時から人類が持ったセックスは原罪だという概念からくるものである、というのがローマの哲学者、アウレリウス・アウグスティヌスの仕事だと言うことは以前に書きました。
彼に関する面白い文を最近読みました。
思春期の頃、彼の生殖器が勃起したのを彼の父親が見たというお話です。
ローマだからまあ、温泉か何かでそうだったのかもしれませんね。
父親はそれを見て、これで近々自分にも孫が出来る、めでたいことだ、と喜んだそうです。
古代ローマではファルスに翼の生えた御守りなどもあり、男性器信仰があって普通に家系の繫栄を意味していたので、この父親の喜びに怪しむべきところはありません。
しかし、この家の複雑なことに、母親は当時まだマジョリティではなかったキリスト教徒だったのですね。
それで、母親からは恥の対応を受けることになります。
これがどうも、アウレリウス・アウグスティヌスが性と信仰について考えるきっかけであったらしい。
その後、少年期のアウレリウスはローマ市民らしく、男性同士のセックスや結婚する気の無い女性とのセックスという時代を経ていたと言います。
まだキリスト教の考えが社会通念になっていないので、別に普通なんですね。
しかし彼は後に母親の影響でキリスト教徒に改宗して、これらのことを振り返り、セックスは人類の原罪であるというのはなぜなのか、ということを神学的に考えるようになりました。
で、その彼の神学者としての仕事があまりに評価を得たために、この考えは長く神学に残り、いまにいたるまでセックスは人類の原罪であるという考えがカトリック、プロテスタントに渡って引き継がれてゆくことになります。
セックスと言うのは、楽園の知恵の実の中にあった概念である、というのがアウグスティヌスの論です。
そこにあった「智恵」というのは、セックスの穏当な表現である、というのが彼の説です。
確かに、セックスを恥ずかしいと感じるのは個々人の事情もあるでしょう。
生殖器は排泄器を兼ねる器官でもあるので、衛生的にも抵抗があるという意見もあるでしょうし、個人的に生殖器官に自信が無いという人情も理解が出来ます。
しかし、それと「全人類にとってセックスは罪である」という断定とはまったく別のお話です。
それをしているのが、アウグスティヌスのリンゴ論に由来するキリスト教の考えなんですね。
それまでは、単におめでたいことだとされていたのに。
最近、中国の通史の本を一冊読み終えました。
老師が「中国史を知りたければ必ず断片でなくて通史を読まなくてはならない」とおっしゃられていたからです。
単純にそれだけの、歴史認識のためだけに読んだ物だったのですが、本の最後に、現代人はすでに認識が西洋化してしまっていて、アジア的思想を理解することが出来なくなっている、ということが書かれていて驚きました。
思想では無くて歴史の本なのですが、やはり結論はそこに至るのです。
また、鈴木大拙和尚の本にも同様のことが書かれていたので驚きました。
大拙和尚はこの世界では、気功や思想のお話が出た時にままお名前が挙がる方なのですが、19世紀に生まれて戦後二十年ほどで亡くなられた禅僧の方で、その時代に世界で禅について講演をされていたという活動をなさっていました。
この方の著書には、戦後僅か二年ほどの時代に書かれた文章で「これからの世界は精神病患者が増える」というようなことが明記されていたりと、実に先見の明があって驚かされます。
その著書に、やはりすでに「現代日本人(戦中世代からブーマーまでですよね)はすでに思考が西洋化していてもはやアジア的な物事の理解は出来なくなっている」とありました。
その例の一つとして、アジア的な不文化の考え方は欧米式の善悪、用不用の考え方にとって代わられており、男性優位、女性蔑視の価値観に変わっているということが書いてありました。
引き合いとして、老子が陰を重視したことが忘れられているとあり、またインドでは雄々しい男神であったお釈迦様がなぜ中国以東で女性の姿に変わったのかと言えば、そこに女性的価値観重視と言う思想があったからだ、ということがありました。
ついには、資本主義の中核思想であるキリスト教でもマリア信仰と言う物があるが、マリア様は成熟した女性ではなく処女であり、かつ母であるという女性性の断片的な切り取られ方をされているとあり、そこに西洋の男尊女卑的、性を禁忌として人を支配しようという欲求の顕れが感じられるとありました。
このところよく思うのですが、私が平素世に投げかけていることなど、もうとっくに先賢たちが語りつくしていることのように思います。
そしてそれらが繰り返し語られながら、ここまで来てしまっているようにもまた打ちのめされかけます。
ただ、それでもいまのパラダイム・シフトではそれらの問題への大きな変化の取り組みが叫ばれており、百年以上かけて世の中が変わってきているのだろうとも思わされます。