少しづつ勁が使えるようになってきた段階で悩むのが、感覚が無いということです。
打てば相手が吹っ飛ぶのですが、自分にはその手ごたえが無い。
自分はそれまでと同じつもりで推してるのに、相手が勝手に飛んで行ってしまう。
こうなると、相手がいなければ自分が出来ているのか出来ていないのかの確認ができないことになってしまいます。
人はどうしても手ごたえを求めてしまう。
けれど、手ごたえが無いから相手が飛ぶのです。ただ自分は相手より正しく立っている。正しく自立出来ている物と出来ていない物がぶつかれば出来ていない方が飛ぶ。それだけです。
だから能動的な手ごたえなどはない。
これは結構重要な問題です。
例えば引っ越しなどをしていて思い冷蔵庫などを渡されたとします。
それを力いっぱい押し上げて階段を上るとします。
その時、ものすごい力を自分の体内に感じます。腕や足の筋肉などちぎれてしまいそうです。
この時もっている力は、当然普段から自分の内側にあったものです。冷蔵庫を渡された瞬間にどこか外から訪れたものではありません。
しかし、では冷蔵庫なしで空手の時に同じ力を感じていたかというとそうではありません。
また、冷蔵庫なしで同じ力を出してみようとしても大変に難しい。
膨らんだ腕、血管の浮いた足などを再現しようとしても重みがなくては出来ません。
これは、重みという抵抗があるからこそ感じられることなのです。
それが無い状態で同じ感覚を感じようとすると、自分の中の逆方向に働く力を作用させて、それに対する反動で力感を作りだしてしまいます。
この時の、逆方向に働く力、自分の働かせたい力に拮抗する力の感覚が、力みです。
いわゆる、無駄な力が入っているという奴です。
手ごたえを感じたいあまりに自作自演で在りもしないものを自ら作り出してしまって、精神に安心感を与えようとしてしまっているのです。
人間は自分自身の自我を中心に物事を感じていると、そのようなことを無意識に初めてしまいます。
手ごたえはなくてもただ相手が飛んでいるのだからそれでよいではないか、というところに落ち着けないのです。
あるがままを受け入れることに不安があるのです。
あるがままの自然の働きを、道教ではタオ、仏教では法と言うようです。
それらの働きに抵抗して、自分の感情を安心させるために作りだす自作自演を迷妄や妄想と言います。
迷妄や妄想を取り払うと、人は自然に働く力を透明に感じることができます。それが稽古の目的です。
強くなりたい、うまくなりたい、そういう真面目な想いすら心の透明さを濁らせます。
ただある。ただやる。それだけの、自然のありかたを通す透明な管になることが目標です。
その管に価値観や希望を持ち込めば、透明な物ではなくサングラスになってしまう。色眼鏡を掛ければ景色はすべてその色ごしにしか見えません。
先日、うちにわりに近い津久井で大きな事件が起きました。
その件について世間では、右翼のテロだ、ヘイトクライムだと言う声が上がっていますが、私が注目しているルポライターの北村年子さんは、そのように短絡するべきではないとの発言をしています。
確かに、容疑者の政治志向や差別思想は捜査の結果浮かび上がっているのですが、果たしてそれは本当に思想とまで言えるものだったのでしょうか? 私には疑問です。
かたやで彼は、UFOだフリーメイソンの指導を受けただ自分は未来人かもしれないだとも明文しています。
ただの麻薬中毒者の、文字通りの妄念と受け取っる方が先なのではないでしょうか。
確かに彼は教員過程を取るだけの知性があり、その文は体裁を成しています。
しかし内容は支離滅裂もいいところです。
体裁に騙されて中身まで整っていると思わされるのが正しいとは思えません。
最終的に彼は、五億円を自分が得られると思って行動していました。
単に、生活苦や職業上の不満がごちゃまぜになって一つになり、五億円がもらえると思いこんだ方向に走っただけかもしれない。だとしたら単なる射幸心が大きな原動力であり、思想は後付けでしょう。
とはいえ、そのような生活に大きな抑圧を抱えた人々にとって、過激な言説や扇動が大きな影響力を持つと言うのは事実でしょう。これは前回の選挙の時にもよく見えました。
私が思うには、結局彼らはきちんと立てなかった人々であり、手ごたえを求めてさまよっているのでしょう。
その焦燥に安易な方向づけをしてあげれば、きっと簡単に扇動されてしまうのです。
なにせ扇動されている間は手ごたえがある。
自分が何かしている気持ちになれる。自分が何者かになったようだ。自分の過去にも意味があったように思える。
すべて妄想、妄念です。
自分を救うために手ごたえを求めてはいけない。
ただ透明に、正しく立つだけでよい。
人を攻撃したり、大きく騒ぎ立てたり、そんなやかましいことはしなくてもよい。
本当にきちんと立てれば、そんな粉飾は不必要になります。
すべてはから騒ぎであり、力みです。
現代社会においてきちんと立つために、やはり自立の手助けの必要性を強く感じました。
憎悪や陰謀論で大騒ぎしたり、群れることや薬物の力を足りなくても、一人でただ自立が出来るようになれることの手助けをしてゆかねばならないと感じています。
ただきちんと立つことが出来れば、何もなかったように見えていた景色に何もねつ造などしなくても、本来働いている力がそこに充ちていることを感じられるはずです。
無理に心を力ませない生き方。そんな物を提供してゆくことに伝統文化の存在意義があるように感じます。
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力みと自立
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