前の記事の続きのようなことを書きます。
前の記事では、身体の使い方は力感を伴わないのが正解であり、ともなうのは自作自演の力みの気が強いと書きました。
また心も同様であり、心が手ごたえを求めると今度は妄念、妄想、妄執の類になるということを書きました。
いつも書いていることですが、私は中国武術や気功を、思想の体現方法として行っています。
思想とは、陰陽思想であり、いわゆる老荘思想のことです。
中国では思想は、儒教の礼、道教の行、仏教の法と言って三道一体になっているのが普通です。
それらの宗派などの詳細にとらわれない、身体で感じられる部分としての陰陽思想を求めています。
と、言うのも道教の行や仏教の法とは単に自然の法則のことであり、神秘的な物やスピリチュアルな意味を否定しています。
これを大きく言うと「天に仁なし」と言います。
つまり、我々の世界は天の仕組みによって動いているけれど、そこには感情的な意味は存在していない。ということです。
天の仕組みとは、キリスト教的な神の意志のようなものではなく、リンゴが木から離れれば下に落ちるという重力のような、物理法則です。
中国武術や気功はこのような物理法則や生物学上の働きを、自分の身体の内側から体感するものです。
そしてすべては突き詰めれば理屈で割り切れるものであり、すべての物に意味も無ければ価値も相対的に個人が付けたものでしかないというスタンスを保持します。
このことを「万物斉同」と言います。老荘における中核の言葉です。
つまり、こうやって、身体と身体に宿るエゴ、物理的な具体には意味がないと言うことと個人の思い入れと言ったような物を、すべて相対化する視点というのが陰陽思想ということです。
換言するなら「落ち着け」ということです。
誰だって、愛する人をうしなったら悲しい。それは個人の感情として間違いのないことです。
でもしかし、人は必ず失われる物だから、それは仕方ないと折り合いをつけることになります。
その冷静さ、その落ち着きを常にどこかで半分持とうという呼びかけが陰陽思想だと言っていいと思います。実際、荘子には奥さんを無くして泣き喚いて少ししたら立ち直るというエピソードがあります。
老荘は古代思想なのですが、これ以前の思想というのは主にシャーマニズムです。
いまどきの言葉で言うとスピリチュアルですね。
きつぼく、ふとまに、信仰の類です。あちらの方向に黒い雲が出たから不吉である。こちらの空に虹が上ったから吉兆である。そういう類の物です。
それにきっぱりと荘子らは突きつけるのです。
「天に仁なし(意味なんてないよ)」
血税で行われた天下の大事業が雲の出た方向一つでチャラになってしまったり、鳥の鳴き声一つで突然誰かが首をはねられてしまったりするような古代社会に対して「万物斉同(すべては物理法則にすぎない)」と一刀両断をかましたのです。
気という概念も、龍と言うたとえも、当時では最先端の科学でした。
この老荘思想の元になると言われているのが、孔子様の儒教です。
孔子様は言いました。
「怪力乱神を語らず」
怪しい力や神々のことを口にするのはまともな人間のすることではない。という意味です。
孔子様はまともな人間という仮想概念を提唱し、それらが充ちれば世の中はまともに改善されるというスタンスを取りました。
儒教から派生した老荘から、さらに禅が生まれます。
老荘で言うタオという物を、もう少し多くの人に分かりやすいように仏の法に例えました。
老荘でかなりこじつけた感のある五行思想や八卦思想、易などを、因果という言葉で表しました。
因果とはつまり、物事にはきちんと理由がある、ということです。
目に見えない妖怪や悪神のたたりではなく、洪水や突然の不幸には何かしら原因があるのだ、ということです。
祟りや呪いではなく、物理的な原因です。
どう考えても思い当たる原因が無くても「前世の因縁」、つまり、お前などが生まれる前からつながっている計り知れない理由が必ずあるのだ、と説いたわけです。
このような考え方は非常にハードボイルドであると同時に、実にアンチクライマックスです。
安易なヒロイズムをすべて否定してしまいます。
その、ヒロイズムに流されずに、すべてを無意味、無価値、物理、相対的と言いきれる生きざまを求めることこそが、これらの思想の中核だと思います。
そして、それが私たちの思う「強さ」です。
いちいち情緒や、目に見えない鬼の類に振り回されない心を持つ。
こういう話があります。
あるところに、一人の猟師が居ました。
猟師が獲物を追っていつもとは違う山に入って奥深くに行くと、なぜかそこにたくさんの人が居ます。
聞けば彼らはこの山の村人で、ある時から毎月新月の夜になると御仏が現れて、選ばれた物を極楽浄土に導いてくれるようになったと言い、今夜がその夜だから待っているのだと言うのです。
猟師は村人と共に夜を待ちました。
すると、真っ暗になったころ、七色の雲に乗り、神仙や霊鳥を引き連れた御仏が空から降りてきました。
御仏は頭を下げる村人の中から一人の手を取り、雲に乗せて連れてゆこうとします。
すると、そこで猟師は突然御仏を撃ちました。
恐ろしい悲鳴が響き、仏と眷属の姿は消え失せて辺りは真っ暗になります。
村人は猟師に詰め寄り、なんてことをしたのだと糺します。
猟師は涼しい顔で火を起こし、仏のいた辺りを照らし出します。
するとそこにはおびただしい血が流れていました。
「仏が血を流すかよ」
村人は猟師の後を追って、点々とつながる血の跡をたどりました。
すると、その先には洞窟があり、大きな狐が血を流して死んでいたということです。
洞窟の中にはこれまでに仏に連れられていったのと同じだけの人骨が散らばっていました。
村人は、猟師になぜ仏がまがいものだと分かったのかと聞きます。
すると猟師は答えました。
「こんなところに仏が現れて人を極楽浄土に連れていくわけがないだろ」
実に冷や水をぶっかけるようなお話ですが、つまりはこれが、自らを救いたい、自分は特別だと思いたい、自分の人生は他とは違う特別な物だと思いたい心が生み出した妄想に捉われた人間と、相対的な人間の差なのです。
私たちが求めているのは、この猟師のような生き方です。
だから動く瞑想である武術をし、あまり動かない瞑想である気功をして、心を木で鼻を括ったような無にする体験を積み、自己を相対化してゆくのです。
しかし、禅を組み、瞑想をしていると、次々に思いがわいてきて無になるということは出来ません。
これは様々な禅の本に出てくる問題のようです。
多くの本は、この次々に沸いてくる想念を雲に例えています。
雲と言うのは風に流れて形を変えて、いろいろな物に見えてきます。
しかし、実際にそれは写実的な物ではないはずです。どちらかと言うと連想を招くだけの影絵のような程度の話でしょう。ある雲がサンマに似ていたとしても、一枚ごとのうろこやヒレが見えるほどリアルである訳がありません。
想念というのはそのような物です。
いくら様々な思いが心に浮かんでも、それは本当の気持ちではないとどこかで分かっているはずです。
過去の怒りや悲しかったこと、自分が特別だという想いなどがわいてきても、本当は必ずどこかに、その怒りも悲しみもすでに過去のことでいま起きているのではないこと、自分が特別だと思いたいのは特別ではないからだと感じているはずです。
なので、わいてくる想念に感情移入しないことです。
その感情移入したい、想念を味わいたいという誘惑こそが危険なものです。
猟師のように、そんなもん現実じゃねーもん、と流して、次々にわいてくる想念を、流れてくるがままにして捉われず、「自分の心には色々な物があるのだなあ」と流せばよいのです。
それが相対化であり、落ち着くということだと思います。
お釈迦様は、むさぼりと怒りと愚かさが人を毒する三つの要素だと言いました。
このいずれも、落ち着いて相対化することで対応が変えられるものではないでしょうか。
一時の感情に流されて自分の暮らしをめちゃめちゃにしてしまうのではなく、本当に望むもの、本当に選ぶべきものについてよく考えられるというのは大切なことです。
本当に大切なことを見抜くために、すべては無意味だと言うことを一度知るというのは、いかにも陰陽思想といったところです。
我々は混沌より生じて虚無へと還る存在だとこの思想では考えます。
裏側、逆側から視点を変えて物を見る視点を習慣として持つということは、その生を豊かで安らいだものにしてくれます。
前の記事では、身体の使い方は力感を伴わないのが正解であり、ともなうのは自作自演の力みの気が強いと書きました。
また心も同様であり、心が手ごたえを求めると今度は妄念、妄想、妄執の類になるということを書きました。
いつも書いていることですが、私は中国武術や気功を、思想の体現方法として行っています。
思想とは、陰陽思想であり、いわゆる老荘思想のことです。
中国では思想は、儒教の礼、道教の行、仏教の法と言って三道一体になっているのが普通です。
それらの宗派などの詳細にとらわれない、身体で感じられる部分としての陰陽思想を求めています。
と、言うのも道教の行や仏教の法とは単に自然の法則のことであり、神秘的な物やスピリチュアルな意味を否定しています。
これを大きく言うと「天に仁なし」と言います。
つまり、我々の世界は天の仕組みによって動いているけれど、そこには感情的な意味は存在していない。ということです。
天の仕組みとは、キリスト教的な神の意志のようなものではなく、リンゴが木から離れれば下に落ちるという重力のような、物理法則です。
中国武術や気功はこのような物理法則や生物学上の働きを、自分の身体の内側から体感するものです。
そしてすべては突き詰めれば理屈で割り切れるものであり、すべての物に意味も無ければ価値も相対的に個人が付けたものでしかないというスタンスを保持します。
このことを「万物斉同」と言います。老荘における中核の言葉です。
つまり、こうやって、身体と身体に宿るエゴ、物理的な具体には意味がないと言うことと個人の思い入れと言ったような物を、すべて相対化する視点というのが陰陽思想ということです。
換言するなら「落ち着け」ということです。
誰だって、愛する人をうしなったら悲しい。それは個人の感情として間違いのないことです。
でもしかし、人は必ず失われる物だから、それは仕方ないと折り合いをつけることになります。
その冷静さ、その落ち着きを常にどこかで半分持とうという呼びかけが陰陽思想だと言っていいと思います。実際、荘子には奥さんを無くして泣き喚いて少ししたら立ち直るというエピソードがあります。
老荘は古代思想なのですが、これ以前の思想というのは主にシャーマニズムです。
いまどきの言葉で言うとスピリチュアルですね。
きつぼく、ふとまに、信仰の類です。あちらの方向に黒い雲が出たから不吉である。こちらの空に虹が上ったから吉兆である。そういう類の物です。
それにきっぱりと荘子らは突きつけるのです。
「天に仁なし(意味なんてないよ)」
血税で行われた天下の大事業が雲の出た方向一つでチャラになってしまったり、鳥の鳴き声一つで突然誰かが首をはねられてしまったりするような古代社会に対して「万物斉同(すべては物理法則にすぎない)」と一刀両断をかましたのです。
気という概念も、龍と言うたとえも、当時では最先端の科学でした。
この老荘思想の元になると言われているのが、孔子様の儒教です。
孔子様は言いました。
「怪力乱神を語らず」
怪しい力や神々のことを口にするのはまともな人間のすることではない。という意味です。
孔子様はまともな人間という仮想概念を提唱し、それらが充ちれば世の中はまともに改善されるというスタンスを取りました。
儒教から派生した老荘から、さらに禅が生まれます。
老荘で言うタオという物を、もう少し多くの人に分かりやすいように仏の法に例えました。
老荘でかなりこじつけた感のある五行思想や八卦思想、易などを、因果という言葉で表しました。
因果とはつまり、物事にはきちんと理由がある、ということです。
目に見えない妖怪や悪神のたたりではなく、洪水や突然の不幸には何かしら原因があるのだ、ということです。
祟りや呪いではなく、物理的な原因です。
どう考えても思い当たる原因が無くても「前世の因縁」、つまり、お前などが生まれる前からつながっている計り知れない理由が必ずあるのだ、と説いたわけです。
このような考え方は非常にハードボイルドであると同時に、実にアンチクライマックスです。
安易なヒロイズムをすべて否定してしまいます。
その、ヒロイズムに流されずに、すべてを無意味、無価値、物理、相対的と言いきれる生きざまを求めることこそが、これらの思想の中核だと思います。
そして、それが私たちの思う「強さ」です。
いちいち情緒や、目に見えない鬼の類に振り回されない心を持つ。
こういう話があります。
あるところに、一人の猟師が居ました。
猟師が獲物を追っていつもとは違う山に入って奥深くに行くと、なぜかそこにたくさんの人が居ます。
聞けば彼らはこの山の村人で、ある時から毎月新月の夜になると御仏が現れて、選ばれた物を極楽浄土に導いてくれるようになったと言い、今夜がその夜だから待っているのだと言うのです。
猟師は村人と共に夜を待ちました。
すると、真っ暗になったころ、七色の雲に乗り、神仙や霊鳥を引き連れた御仏が空から降りてきました。
御仏は頭を下げる村人の中から一人の手を取り、雲に乗せて連れてゆこうとします。
すると、そこで猟師は突然御仏を撃ちました。
恐ろしい悲鳴が響き、仏と眷属の姿は消え失せて辺りは真っ暗になります。
村人は猟師に詰め寄り、なんてことをしたのだと糺します。
猟師は涼しい顔で火を起こし、仏のいた辺りを照らし出します。
するとそこにはおびただしい血が流れていました。
「仏が血を流すかよ」
村人は猟師の後を追って、点々とつながる血の跡をたどりました。
すると、その先には洞窟があり、大きな狐が血を流して死んでいたということです。
洞窟の中にはこれまでに仏に連れられていったのと同じだけの人骨が散らばっていました。
村人は、猟師になぜ仏がまがいものだと分かったのかと聞きます。
すると猟師は答えました。
「こんなところに仏が現れて人を極楽浄土に連れていくわけがないだろ」
実に冷や水をぶっかけるようなお話ですが、つまりはこれが、自らを救いたい、自分は特別だと思いたい、自分の人生は他とは違う特別な物だと思いたい心が生み出した妄想に捉われた人間と、相対的な人間の差なのです。
私たちが求めているのは、この猟師のような生き方です。
だから動く瞑想である武術をし、あまり動かない瞑想である気功をして、心を木で鼻を括ったような無にする体験を積み、自己を相対化してゆくのです。
しかし、禅を組み、瞑想をしていると、次々に思いがわいてきて無になるということは出来ません。
これは様々な禅の本に出てくる問題のようです。
多くの本は、この次々に沸いてくる想念を雲に例えています。
雲と言うのは風に流れて形を変えて、いろいろな物に見えてきます。
しかし、実際にそれは写実的な物ではないはずです。どちらかと言うと連想を招くだけの影絵のような程度の話でしょう。ある雲がサンマに似ていたとしても、一枚ごとのうろこやヒレが見えるほどリアルである訳がありません。
想念というのはそのような物です。
いくら様々な思いが心に浮かんでも、それは本当の気持ちではないとどこかで分かっているはずです。
過去の怒りや悲しかったこと、自分が特別だという想いなどがわいてきても、本当は必ずどこかに、その怒りも悲しみもすでに過去のことでいま起きているのではないこと、自分が特別だと思いたいのは特別ではないからだと感じているはずです。
なので、わいてくる想念に感情移入しないことです。
その感情移入したい、想念を味わいたいという誘惑こそが危険なものです。
猟師のように、そんなもん現実じゃねーもん、と流して、次々にわいてくる想念を、流れてくるがままにして捉われず、「自分の心には色々な物があるのだなあ」と流せばよいのです。
それが相対化であり、落ち着くということだと思います。
お釈迦様は、むさぼりと怒りと愚かさが人を毒する三つの要素だと言いました。
このいずれも、落ち着いて相対化することで対応が変えられるものではないでしょうか。
一時の感情に流されて自分の暮らしをめちゃめちゃにしてしまうのではなく、本当に望むもの、本当に選ぶべきものについてよく考えられるというのは大切なことです。
本当に大切なことを見抜くために、すべては無意味だと言うことを一度知るというのは、いかにも陰陽思想といったところです。
我々は混沌より生じて虚無へと還る存在だとこの思想では考えます。
裏側、逆側から視点を変えて物を見る視点を習慣として持つということは、その生を豊かで安らいだものにしてくれます。