日々、蔡李佛の伝を守護し、五祖拳の練功をしながら、最近は通臂拳の基本を重視してやっています。
分からないところなどは師兄に相談したりしながら理解を深めて行っています。
先に書いた速すぎて見えない教材などはおかげで取り入れることが出来ました。
その上であらためて思ったのが、通臂拳類というのは、本当に自由になるものだなあということです。
少林拳というのは仏教の行なので、そもが自由に生きるということが根本にある物だと思うのですが、それぞれの拳で取り組み方の角度が違うことでしょう。
通臂拳類はだいぶ自由に、身体の中の功、あるいは元神の部分が行きたいように行かせるように任せる練習となっているという感じが現在しております。
とはいえ、脱力し、快速で、腕を伸ばした動きを単に未経験のままフィーリングでやれば、すぐに関節に負担がかかってしまいます。
速く動こうとすれば力んで拙速になり、のびやかにやろうとしては関節を傷めることもありえます。
ですので、土台となる肉体の部分が必要です。
基礎からしっかり作って行かないと、これは本当には身に着けることが出来ない。
肉体という自然から物理的な束縛を受ける部分と向き合わないと、自由になることは出来ない訳ですね。
そういうことをね、中国武術と言う物は教えてくれます。
そして、そのための方法を一つづつ進んで行って、自由のままに動くことが出来るようになることでしょう。
西洋哲学では、常に自由と言うのはテーマとなってきました。
対立概念としての信仰との違いとして、哲理を持って真実に迫り、魂の自由を獲得するということがテーマとなっていたようです。
英語のリベラルやフリーというのは前提として束縛がある、と言われたのは19世紀に世界で禅を広めた鈴木大拙和尚です。
大拙和尚が曰く、それらに自由と言う訳を当てた折には微細なニュアンスが抜けており、本来のアジアにおける自由と言うのはまた意味が違うのだということです。
東洋における自由とは何かというと、これは自ずと由という字のごとく、生まれながらのそのようになっているからそうなのだ、という物のことだそうです。
拳に話を戻すなら、個々人のうちにあるそれぞれの自由のままに身体が動く。
そこに至ったとき、あるいて初めて我々の自我は己の内なる自由の手触りを知ることになるかもしれません。
何しろ私たちは、あまりに後天的な物によって作られてきていて、それらが当たり前すぎて自覚することさえ難しくなってしまっています。