いつもお世話になっているお友達の阿闍梨が、地球の反対側からお便りをくれました。
その中で、あるウェブニュースのリンクが貼ってあったので目にしたのですが、これが当時行われていた参議院選に関する、阿闍梨がお住いのブラジルでの日系人社会の反応に関する物でした。
それは、日本ではほとんど認識をされて居ない(私も存在を知りませんでした)ある政党に対して、海外在住の日系の人たちが支援をしているというお話でした。
実際にその政党がどのような物なのか、ネット上の記事の抜粋をご覧いただきましょう。
”それまでヨガ教室に熱心に通い、自然食品を愛好し、個人経営の自然派喫茶店が行きつけである、とフェイスブックに書いていた人が、ある日突然、参政党のYouTubeに感化されシェア・投稿しだす。それまでインド等の南アジアを放浪し、自然の偉大さや神秘に触れる感動的な旅行記を寄稿していた人が、ある日突然、参政党のYouTubeに感化され...。このような事例は観測するだけで山のようにあるし、私の周辺にも極めて多い。そして一様に、参政党支持以前は、政治的に全くの無色透明であり、選挙にも全く関心が無いといった人々ばかりなのである。彼らは政治的なリテラシーをほとんど持っていない。参政党のオーガニック信仰の後に必ず付随される従の部分、つまり「憲法9条改正」だの「外国による侵略の危機」だの「太平洋戦争の肯定」などの主張に触れても、それが「一般的にいうところの右なのか左なのか」という鑑別基準すら持っていない場合が多い。”
このような影響力を持っている政党が、海外の日系人にもネット経由で影響を及ぼしているというのです。
ここで書かれている政党のどこが問題なのか、抜粋だけではわからないでしょう。
一言で言うなら、Jアノンです。
トランプとプーチンを神聖視し、ウクライナ侵攻に賛同している人たちです。
選挙中に起きた事件によって、現在日本ではカルトに対する見つめなおしが始まっているように見えます。
その波紋で起きた幾つかの報道の中で「カルトは宗教だけではない。陰謀論やマルチも含む」ということが語られています。
つまりは、この政党がカルトであるから私は危険視している訳です。
少し前にカルトに関する記事を書きましたが、上の引用文で書かれているのもまた、まったくリテラシーの無い「カモ」が取り込まれているという現状です。
リテラシーが無いからこそ、免疫がないままに、右か左かもわからないままその運動に取り込まれてゆくということが書かれていますが、まさに前の記事に書いたのとまったく同じことです。
これ、以前に世間で話題になった「民主主義ってなんだっけ」と謳いながら町を練り歩いていた人たちの危うさとそっくりだと私は感じています。
なんだっけの人たちになぜ私が冷淡であるのかというと、すなわちあまりに危し昏しであるからです。
彼らはいまごろどうしているでしょう。
特定の政治家に対して「死ね!」「殺す!」と叫んでいた彼らは、実際にその人物が殺されて死んだいま、喜んで満足しているのでしょうか。
そういう人もいることでしょう。
そうでないという人たちは、一体何を叫んでいたのでしょう。
そこには中身が何もない。
今回の事件が起きて少ししてから、被害者の擁護側からはこのなんだっけ隊の影響を指摘する声も大きかったと聴きます。
私はそんなことは毫ほども思いつかなかった。
なんだっけ隊のような人々が、そのような力を持つことはありえないと侮っていたからです。
彼らのような人々は、何も本当のことなど出来ようとは思えない。それにはあまりにも、危うく、昏い。
では何をしてそうだと失礼な勘繰りをするならば、上の引用文のようなことだと思っています。
代替わりはしていれど、上の引用文に出てくるようなSNSで写真をアップしたりインドの夕陽に感動したりしていたような人たちが、同じ種類の人間なのだろうなあと偏見しています。
すなわち、リテラシーが無い。
私は先ほどからしきりに危うし、昏いと繰り返していますがこれは孔子からの引用です。
孔太夫が、学問と思考の両輪が兼ね備えられていないことを評した言葉がこの危うしと昏しです。
学問と言うのは重要です。
仮にどれだけ自分の人生で幸せを感じたり、大きな物を感じたりしても、それは結局、自分一人の感受性というちっぽけな物の震えにすぎません。
鬼面人を嚇すという言葉がありますが、ちっぽけな一個人の自我など簡単に動くものです。
己の感じた感動、動揺を相対化し、それがちっぽけな自分の器をいっぱいにした程度のことであると相対化するには、かならず多くの一個人の集大成の積み上げが必要になります。
それが学問です。
一貫した思想の通った巨大なデータベースを頼りにする以外に、個人が個人より大きな存在を理解しようとすることは不可能です。
私はアジアの身体哲学を研究していますが、近年になってようやく気付いたことがあります。
それは、どれだけこのITの時代で情報に恵まれていても、すべてを知ることが出来ないということです。
有史以来の人類の積み重ねすべてを学ぶには、圧倒的に一個人には所有時間が足りていない。
どうしても、選別して学んでゆくことしか出来ません。
私自身、いくつかの流派の身体学問を継承していますが、通常これらの物のマスターになろうと思えば一流儀五年から十年はかかる。
つまり、一生の間に十も二十も体得して全内容を網羅しようということはほぼ不可能なのです。
もしかりに出来たとしても、まだまだいくつも他流の真伝は世の中に存在し続けています。
膨大な人数による長大な歴史の積み重ねを、単身に全て納めることは絶対に出来ない。
賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶというのはこういうことでしょう。
自分一人のちっぽけな経験の中で判断している内は、そこまでの生き方しか出来はしません。
世界は広く、物凄く大きい。
自分の枠からはみ出していて当たり前なのです。
己と言うちいさな器を判断基準にしては測り切れないものばかりだ。
だから、学問と言う先人の積み上げには大きな価値があります。
しかし、スピリチュアルやポジティブ・シンキング、成功哲学のような物はお手軽な個人経験にうったえかける小さな小さな物ばかりです。
暮らしの中の小さなことに喜びを感じてSNSにアップしていた人たちや、インドの夕日に感動していた人たちは素直な人たちなのでしょう。
その素直さで、持ち前の器はすぐにいっぱいになってしまう。
お手軽で簡単な小さな価値観と、世界の広大さに通じる価値観を混同してしまいます。
本当の真実には、ちっぽけな範囲での再現性などありません。
世界はあまりに広大で、個人の経験の範囲では計り知れはしません。
スピリチュアルというお手軽な逃避手段が、自然食崇拝や有機農法信仰を入り口に素直で素朴な人たちの心に入ってきて中身を侵して行ってしまう。
自然食、有機農法、ヨガの行く先が現代社会の政治的な問題、保守、ポピュリズム、夫婦別性と同性婚の禁止などに繋がっていってしまうということをもっと学んでゆくほうがよい。
90年代、日本史上に残るカルト事件が起きたときに、その信者がヨガサークルを中心に勧誘されていたことが判明しました。
ほんの数年前まで、大学に入るとヨガサークルを装った勧誘サークルへの注意喚起をするポスターが貼られていました。
それらの手口はほとんど変わっていない。
騙しの手口は変えなくても、カモはどんどん生まれてくるというバーナムの騙しの理論の通りです。
自然食、有機野菜というのも昔から繰り返されてきた手口です。
有機と言いながら実際は知らずに農薬を使っていたという悪気の無い農家さんに引っかかってしまっていただけのようなのですが、安易にスピリチュアルな物に飛びつくうかつさが容易に人をつまづかせるという好例だとは言えましょう。
我々は本当に注意して、自浄作用を働かせながら注意深く自問自答をして生きて行かないと、簡単に人生を誰かに乗っ取られているということが起きえます。
どうか皆さん、今一度あらためてお気を付けを。