マイティ・ソーの新しい映画を観てまいりました。
私の好きな、テイカ・ワイティティ監督の新作です。
作品内容に触れてゆきますので、ネタバレが気になる方はどうか退避下さい。
ソーと言うのは、北欧神話の雷の神様ですね。
マーベル世界では神々が宇宙人として実在していて、宇宙を支配する存在として暮らしています。
今回の映画では世界各地の神様が集まって会議をするというシーンもあります。
となると、これはギリシャ神話なんかと同じで、神々の神と言う物の存在がその背後に浮き彫りとなってきます。
つまり、神々の運命を差配するのは誰なのか、ということです。
多神教宇宙観というのはこういうことですね。一神教的なすべてを司る絶対的な存在ではありえない。
必然、神々はただの超人的な存在であって万能ではなくなります。
元々、ソーと言うキャラクターはアヴェンジャーズの中では弱いキャラクターでした。
弱いと言うと色々なニュアンスがありますが、アイアンマンのような図々しさや、キャプテン・アメリカのような揺らぎのない倫理、スパイダーマンのようななんでそんなに強いんだという精神力がありません。
生来の圧倒的な力に恵まれているからこそ、精神的に未成熟なキャラクターという役割を担ってきていました。
第一作の日本公開時には「俺様ヒーロー」と言うコピーが付けられていましたが、まさに甘やかされたお坊ちゃんのままおおきくなってしまっている。
最大の危機であった「指パッチン」の事件の時も、感情的な仇討ちのために無抵抗な敵を殺害して、のちに傷ついて引きこもりになってしまったという姿が描かれています。
今回はその後、ヨガやフィットネスで立ち直った後が描かれます。
その、立ち直り方がいかにも甘やかされたハリウッド・セレブのようで、いかに彼の人間性が舐められているのかが伝わってまいります。
そういう、常に本当に起きていることの真芯を捉えられていない、上っ面のスピリチュアルな寝言を言ってばかりで独りよがりだという様は今回の立ち直りシークエンスのオチとして描かれます。
要するに、甘やかされた白人として描かれているのですね。
これは実は、ワイティティ監督の傑作「ジョジョ・ラビット」におけるヒトラーやナチスの描写と通ずるものが感じられます。
監督はその作中で自らヒトラーを演じ「有色民族である自分が演じることで最大の侮辱をした」と意図を述懐しています。
今回のソーは、そのような恵まれた環境の甘やかされたとっちゃん坊やが、大人になるということを描いた作品です。
彼の回想シーンの中で、元カノとの恋愛が描かれて、そのEXガールフレンドとの再会が本編の一つの縦軸となっています。
別れた理由と言うのが描かれるのですが、これがしょーもない。
二人とも、互いに相手を愛しているがゆえにいつか分かれるのが怖くて傷つきたくなくて距離を取り始めてそれが原因で別れる、という恐ろしくバカバカしい物が分かれの理由です。
そんな弱い人間この地球上に存在するの? とあきれるのですが、するのですよね。
私も過去に何人も見てきました。
弱さを克服できず、試し行動を繰り返してそれが原因で関係が破たんするということが。
DVと言うのはそういうことでしょう。
要するに、みんなメンヘラなんですよね。
経験が無く、自分を強く生かそうという「意思」を持たずに生きてくるとそうなってくる。
そしてそれらは、満たされずに育ってきた貧しい物にも、甘やかされて実を得てくる生き方が出来なかった者にも起きえる。
ソーの場合は間違いなく後者です。
さてここまで、神々の運命と生きる心の弱さについて書いてきました。
これは、アヴェンジャーズではソーでしか書けないテーマですね。
実際、今回の彼は敗北をします。
もう、冒頭でこの物語は敗北するしかないという状況にあることが描かれます。
そしてその問題は解決することのないまま映画は最後まで進みます。
彼の障害となるのは、ソーとは真逆の存在、苦労に苦労を重ねて苦しんで生きてきた誠実な人です。演じるのはあのクリスチャン・ベール。
このベールが、神々と世界の虚妄に直面して怒りに満たされ、神々を滅ぼしてゆく、というのが今回の三人称的な縦軸です。
これを阻止する旅の過程でソーもまた、神々に助けを求めたところ「そんなこと知らない、下々は勝手にしといて」突き放されて、神々がみな、自分と同じただの甘やかされた既得権益者に過ぎなかったという現実に直面します。
それによってソーは神々の法を破って個人的な目的を達成するために旅を続けるのですが、最終的に敗北します。
問題は、その敗北の仕方なのです。
彼の敗北の仕方は、同じく敗北者であるベールの心を少し動かします。
大人になるということは、敗北の仕方を学ぶということだと私は思っています。
これは日本武術から学びました。
古伝の日本武術とは、勝利することではなく、いかに士として見苦しくなく、一定の役割を果たして死ぬかと言う倫理観の教育であるといまでも私は思っています。
死に方の作法です。
ソーもまた、死に直面してそこに至ります。
その時、闘争心も利己心も捨てた段階に人は至ることが出来る。
バカバカしいヨガやフィットネスで成長した気になって来たソーが、自分の力の及ばない過酷な現実に直面し、やっと本当の選択をするのです。
この時、彼は回想シーンで描かれていた心の弱さを超越し、本当の愛を感じることが出来るようになります。
これは我々、甘やかされた高度経済成長国の人間にとって、非常に身につまされる神話足りえます。
自分の弱さに耽溺して本当に大切な物を壊しつくす前に、目を覚まして本当に世界と向き合えるようにならないと。