よく、武術では剛と柔なんて言葉を使いますが、日本は世界に広まった柔道の本家だということで、この柔という言葉の印象が強すぎてどうも本来での意味が見失われているようにも思われます。
というような話を以前にも書きました。
今回は、この剛柔とよく似た言葉、硬軟について語りたいと思います。
というのは先日ホグワーツの陰陽学説の授業でこの言葉が出て来たからです。
陰陽に言葉を分類するときに、剛と柔だとどちらが陰でどちらが陽だと思いますか?
きっと、剛が陽で柔が陰だと即答される方が多いと思われます。
これは老子にも出てきている有名な文ですものね。
では、剛柔とよく似た言葉、硬と軟ではどちらが陽でどちらが陰でしょう。
これ、難しいでしょう?
正解は、硬が陰で軟が陽だそうです。
というのも、硬というのは文字の作りに石が付いていることからも分かるように、これは五行で言うところの金行、内側に向いた力が働いている硬さだからだというのですね。
対して軟は陽。
また老子に戻りますと、そもそも混沌、道という物事が入り混じって分け難い状態の時に、重い物が沈み、軽い物が浮かんで二つに分かれて陰陽分明が始まったと言う故事があります。
重い物が陰、軽い物が陽ですね。
ですので、軟というのは軽々しい柔らかさということになります。
中国武術の世界で、硬軟というならば、代表的なのは兵器の質に関して使われる表現としてでしょう。
硬兵器と言えば硬い兵器、軟兵器と言えば柔らかい兵器のことです。
この差が分かりやすいのは、鞭でしょう。
軟鞭と言えばよく知られているような、ひも状の鞭のことですが、硬鞭と言えば硬い鉄棒のことです。
確かに紐の鞭のほうが軽くて陽の気がしませんか? 鉄の棍棒は陰という感じがしません?
この具体例を目にしてみると、硬軟の剛柔の分類が伝わりやすいのではないでしょうか。
で、徒手の拳法の時にこの硬軟を応用するなら、やはり硬とは重くて硬い、内に力が入った状態、軟とは軽くてふにゃふにゃのそれこそ紐のような状態です。
中国には色んな言語があってそれぞれの漢字のニュアンスがありますから、この解釈が全てだとは言えませんが、私がいま上に書いた徒手拳法における硬軟の分類でいうならこれ、中国武術としてはどちらもダメです。
片方は力が入っている拙力の状態。
片方は全く力がない無力の状態です。
この分類は、90年代に書かれた武道書の中でも、同様のことが書かれていました。
その本は非常に科学的な分析がされている、論理的な良書として知られていますが、その中で武術に必要なのは剛柔であり、硬軟の次元を卒業したところにそれはある、とされています。
けだし慧眼。
同時代に中国武術を修行していた日本人みんながが言うのが、とにかく力の抜き方に苦労するということでした。
「日本人は平素から力みがあって脱力が出来ない」というのが中華系老師たちの定説のようになっていたと記憶しています。
私自身も、この部分にはとても苦労しました。
これはつまり、現代日本人が常識として認識しているのが硬軟のレイヤーだからです。
脱力状態からいきなり瞬間的に力を込めることを由としたり、逆に固まっている状態から瞬発するのが「術」だと思い込んでしまう創作武術家を散見してきましたが、彼らはみなこのレベルにあって、日本人の悪癖を乗り越える準備がまだ出来ていません。
中にはそういった拙力を「勁」だという人達がたくさんいて、世の中に沢山のウソを広めて害を与えてきました。
そういうことではないのです。
中国武術が求めているのはあくまで剛柔のレベルです。
これはどういうことか。
よく使われる「勁」という言葉で言うなら、これは「植物が持っているような強さ」あるいはそのしなりであると言われることが多い。
わかりやすく言うなら、張り、弾力性がある力だということも出来るでしょう。
上に書いた硬軟は、どちらも機械的な力、硬く、乾いたような力であって、これは中国武術ではときに「死力」、すなわち命の宿っていない力だと言われる類の物となります。
剛柔のレベルの力を陰陽思想をまた引き合いに出して説明するなら、まず剛と言うのは陽剛の言葉もある通り、積極的な力、具体的に言うなら、内側から外に向かう力です。
内に向かう「硬」とは反対の力であることがお分かりでしょう。
先の勁と合わせていうなら、これは植物が外に向かって伸びる力や、表に向かって張り出しているような力です。
中身が詰まっていて非常に重い。その重さが外に向かって出ているような力を表現していると私は解釈しています。
まだ乾燥していない、生木の丸太で思い切り突かれるような重さと質感がここには感じられます。
あるいは巨大なゴムのタイヤのような力。
どれだけ外部から重い物で殴りつけてもより大きな力で弾かれる。
対して、柔とはどういうことか。
陽剛に対して、陰柔という言葉があります。
日本人がこの言葉に対して抱くイメージはほとんど、上に書いた軟の物だと思われます。
実際の陰柔とは何か、それもまた老子に明言されています。
それは流れる水の力です。
誤解してはいけないのは、止まった水ではないということです。
あくまでも流れる水です。
なぜそう言い切れるか。それはソースである老子に、陰柔は水であり、柔らかく常に形を変えるがその力で相手を操り、流してゆくとあるからです。
人をさらって行く土用波(夏ですね、みなさん気を付けてください)やあの恐ろしい津波のような、捉まえて対処の出来ない形はないが圧倒的な力の塊を柔と言います。
私も一度、川で泳いでいるときに流されたことがありましたが、腰丈程度の浅い場所でも抗うことが出来ず、あれよあれよという間に流され続けて小さな滝をいくつも落とされて石にぶつかりまくってひどい目にあったことがあります。
一見なにも起きていないようだし実態を捉えることも出来ないが、抵抗することも出来ずただやられっぱなしにされるしかない。
そのような強さを老子は陰柔の強さであるとし、これを世の中で至上の物であるとしています。
卑近ですが、私がある防身術の先生を発勁で押し飛ばした時、天井に頭をぶつけそうになるくらいに飛んで行ったその方が「格闘技はエアガンで撃たれたように硬くて痛い。発勁は津波のように力が押し寄せてくる」と言われましたが、非常に聡明な表現であると感銘しています。
このように、中国武術における本来の剛柔とは一般人が想像している物とは、おそらくまったくニュアンスが違いますでしょう。
現代武道家や武術愛好者が感じているのはあくまで硬軟のレベルの物だということがお分かりいただけたと思います。
ですので、原理で言うならこれはやはり、剛柔でいうなら柔の方がよりレベルが高い。
しかし、剛というのはすでに柔を含んだ物、あるいはその柔の力がより積極的な姿を見せた相であると言ってよいと思うので、これは決して硬軟のレベルとは隔絶したところにあります。
柔よく剛を制すという言葉がありますが、これは結局、形を見せない物が形を見せた物を押し流して思うままにした、という解釈が良いでしょう。
そしてほとんどの素人自称武術家が言うことのないこととして、この言葉には「剛よく柔を断つ」という対句があって合わせて一つとなります。
目に見えない力を、同じ種類の目に見える積極性が断ち切って勝った、ということでしょう。
つまり、これら二つは陰陽互根の法則によって一つの物の二つの面である、ということです。
これは決して、硬軟と同一視は出来ない。
一万円札を持っている人は、その裏面を使うことも表面を使うことも出来ます。
しかし、百円しか持っていない人は、百円の裏表しか使えない。
剛柔と硬軟とはそれくらいに違う物です。
剛が出来れば、柔にするかどうかは選択の問題で、柔が出来るということは、剛が出来て初めて成り立つ。
剛柔、硬軟、断じて混同すべきではありません。