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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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欺瞞の歴史

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 ここでの記事を含んだ私の活動は、東洋思想の具体としての正統な伝統的身体哲学の伝承者としての物なので、常々スピリチュアルやオカルトなどの安手の迷妄に関しては否定をし続けています。

 しかし、なぜだかその手の迷っちゃった人たちが私の活動に関心を持ったり肯定的な姿勢を表明することが後を絶ちません。

 これはどうしたことか。

 私のことなんて気に掛けなくていいからさっさと目を覚ましてその迷信をごみ箱に捨てて二度と関わらないようにするか、本当のことがしたいならちゃんとしたお寺か修行場にでもお行きなさい。

 まぁ、より重症な人はカウンセリングと精神科の領域だと思うのですけれども。

 にしても、いまネットを見渡してみれば本当にこの手の半狂人が非常に多い。

 驚きあきれながら眺めていた時にふと気が付いたのですが、もしかしてそれらの人たちの多くは、スピリチュアルなんて物が無かった時代を知らないのではないか?

 物心ついた時から身近にそのような迷信が野放しで転がっていて触れていたなら、何の疑問もなく染まって行ってしまってもおかしくはありません。

 いわゆる洗脳です。

 そういう人たちのために今回は書いてゆきたいと思っているのですが、90年代までこの国には、スピリチュアルなどと言う物はありませんでした。

 これは、マインドフルネスやウェルビーイングなどと言う物が無かったのと同じです。

 マインドフルネスの前には本物の「瞑想」があり、ウェルビーイングの本物は「養生」と言ったところでしょう。

 これらの本物が廉価版のファスト・フードになって何やらカタカナの名前のジャンクになった。

 ジャンク・フードばかり食べていると栄養失調になり、かつ太り、頭も悪くなるというのは多くの人がご存知だと思います。

 しかし、元々本物のスロウな物を知らず、ジャンク・フードしかない状況で生まれ育っていれば、何がジャンクなのかを知ることは不可能でしょう。

 周りにそれしかないのですから。

 こういった知識の囲い込みは、典型的な洗脳の状況設定となります。

 スピリチュアルと言うのは、90年代にアメリカで流行した概念です。

 元々は60年代に興ったヒッピー・カルチャーが東洋思想を誤った解釈をして生まれた物でしょう。

 さらに言うと、そのヒッピーの前身としてビート・カルチャーと言う物があり、社会通念に反して禅などにあこがれる若者たちがアメリカで流行ったのですが、19世紀に生まれてアメリカで禅を広めた鈴木大拙法師などはこれに関して「偽物」だと真向から否定をしています。

 そのようなアメリカ偽物東洋思想の第三世代がスピリチュアルであり、これはある種の先祖がえりをして、星占いや天使信仰のような西洋の迷信も取り入れた、いわばある種の総合迷信として流行しました。

 時代はウィンドウズ95が世界的に流行して一気に地球上がIT化してゆく、某大臣言う処の「IT革命」の時代です。

 こういったパラダイム・シフトのどさくさ、もしくはそこから零れ落ちた者たちの不安の中で、迷信と言う物は広まると言うのが人類史の中で繰り返されてきたことなのでしょう。

「信じて願えば望みは叶う」と言うようなスピリチュアルの最初の一歩目は、80年代までは「スポコン」「熱血」と呼ばれていて、血のにじむ努力を前提としていました。

 要するに、努力が嫌でそういった血の流しあい競争から脱落した人たちが、それでも資本主義的な欲求をかなえたいという思いから、楽して望みが叶うという迷信を信奉して行ったのでしょう。

 昔、私の世代では、頭の悪い教師たちが「上手く行かないのは本気で願ってないからだ!」とか「痛いとか疲れたというのは甘えだ! 痛くないと思えば痛くない!」などと最悪なことを言いながら竹刀を振り回していました。

 その後ろには「このままじゃ負け犬だぞ! 勝ちたくないのか! 成功したくないのか!」という射幸心を煽る思想が付いてきていました。

 はっきり言って詐欺師の洗脳以外の何物でもない。

 思考停止をさせて人を操ろうとしているだけです。

 この、脳みそが硬直したような思想を言葉遣いを変えて砂糖でくるむとスピリチュアルになります。

 要するに、根本的には同じ物です。

 スピリチュアルと言う言葉自体、翻訳して見れば「精神主義」という意味ではないですか。

 スピリチュアルと精神主義は、アメとムチの違いに過ぎない。

 いずれにせよ人間を家畜として扇動するだけのものです。

 80年代、精神主義への否定の視線が興ってきていて、そういった物は70年代的だと見なされていました。

 70年代にはヒッピーの時代が日本にもあったと言います。同時に、スポコンの全盛期でした。

 つまり、スピリチュアルと精神主義がともに強く両立していた。

 さらに60年代にまで遡ると、ここで政治の時代とその終わりがあったと言います。

 つまり、反体制が敗北して体制が圧倒的な勝者となり、大衆はアメかムチかの選択を差し出されることになった。

 そしてこの時代に、政権はいま話題になっているカルトと手を組み、この国の支配、管理を強化するということを始めました。

 言いたいことはお分かりでしょうか。

 この、オカルトやスピリチュアルの流行と言うのは、政権が望んでやっていたことだと言うことです。

 そのようにして、自らアメかムチかの選択をする国民は、恐らくは非常に管理しやすい家畜であったことでしょう。

 スピリチュアルや精神主義を選んでいる間は、決して自由になることは出来ない。

 肥え太らされて国の食い物になるか、やせ細って死ぬまで使いつぶされるかのどちらかです。

 ブタとして食われるか、ロバとして使い殺されるか。

 政権が精神主義で国民を絞り上げて吸い上げ、そこから逃げた人たちがスピリチュアルに行ってカルトに掬い上げられてこちらで吸い上げられるかという両面作戦は、つまりはそういうことでしょう。

 こういうことに要約世の中の心ある人たちが声を上げ、抵抗が叶う時期になってきました。

 その流れの中で、スピリチュアルに乗っかってまた体制の支配に加担するようなことは出来ればしないでいただきたい。

 どうかこの機会に、半世紀以上に渡って洗脳され続けてきたこの国の体制を改めて見直して、自分自身がどれだけ影響を受けているかを自覚し、相対化して自らを本当に自由にするための方法について考えていただきたいと思います。


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