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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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思考とベクトル 試論4

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 さて今回は、以前に書いたパースペクティヴとベクトルと、社会について書きたいと思います。

 これまで、我々の伝統武術がどのような理由で身体哲学だと言えるのかと言うことを一例を出して書いてきました。

 この身体哲学の発生は、お釈迦様の仏教哲学に始まります。

 あるいは中華においての道家思想にそれを求められるかもしれません。

 これらは中国において一つとなり、少林寺で禅と呼ばれる思想および行の体系となりました。

 少林武術というのはその中の一つの方法となります。

 お釈迦様の時代、インド文化圏は強いカースト社会で、ただでさえ苦しい生存環境に加えて社会構造によっても人々は苦しめられていました。

 いまの日本とよく似ていますね。

 お釈迦様の身体哲学が、その環境による抑圧を前提としていたことは間違いありません。

 その中で、どうすれば自分を取り巻く因果と、自分に刷り込まれた世界観から自由になれるのか、ということが仏教の哲学にはありました。

 これをベクトルで言うと、前者は自分にパースペクティヴがあり、そこから外にベクトルが向いていました。

 もう一つの方は、そこから自分へとベクトルが向いてゆきます。

 これは自省、内観という、かなり高度な方向へのベクトルの変化と言うことが出来る気がします。

 外から内へというのは、とても難しい。

 しかも、内へ向かったときには一体どこにパースペクティヴがあるのか、という問題が発生します。

 この場合、自分でありながら自分の外に視点を持つという仮設パースペクティヴを設定するということが行われています。

 つまり、これは自己を客観視する一歩目を経ていないと出来ないことと言えます。

 この先に、自分で自分を見直して良い方向に持ってゆくという自浄作用の始まりがあります。

 このベクトルからさらに、もう一度世界を観るという外へのベクトルに視点を変えたとき、最初とは違う物が見えてくるはずです。

 それは、最初とは別の、自分でありながら自分の外であるというパースペクティヴで見ているからです。これを心理学では超自我(スーパーエゴ)と言います。

 自己の習慣や刷り込み、洗脳された意味の分からない通念や損得なの自我を越えたところの理念です。

 こうして視点と見る方向の変化を繰り返してゆくことで、人は見識を広げ、自分自身の内面も改善してゆくことが可能です。

 しかし、現代社会はこのような能力を忌避します。

 そのように、自己の感情や損得を越えて正しいことをしてしまう人は操りにくい。

 損得と感情だけで何も迷わず突っ走る習性を持った家畜のような人間たちこそが、産業化社会の求める「人材」です。

 考えてみればこれはすごい言葉です。ヒトなのに、素材なのですよ。何か大きな物を作るための部品として観られている。

 つまりはそれが、産業革命以後の社会の視点だということです。

 このようにして、組織の部品として作り上げられてしまった人間は、一旦組織の中に入るとその外側を観る、あるいは外側から観るということが出来なくなってゆきます。

 これは、超自我が自分の外を観たり、外から自分を観ることと対応した視点ですね。それが損なわれてゆきます。

 そうなるとどうなるか。

 組織の内側から内側しか観なくなります。

 こうなれば組織からすると好都合ですね。

 その都合のよさは、近年の報道では政府への忖度と言う言葉で良く表現されています。

 これが現代社会が求めている「人材」です。

 人間であることや倫理、規範を棄てて組織と言う集合体の部品になることに専念してゆく。

 いまの社会、こんな人間が大半をしめてはいませんか。

 会社員はもちろん会社の中のことばかりみている。

 専業主婦は家庭の中ばかり見ている。

 若い奥さんはママ友仲間やSNSの反応ばかり見ている。

 教師は学校の中ばかり見ている。

 誰も外の世界をどうするか、社会が現実にはどうなっているかということなどには目を向けない。

 だから60年もカルトがこの国を食い物に出来て来たのでしょう。

 国民による、司法、立法、行政への監視と言う民主主義の基礎機能が働いていない。

 この機能のことを、自浄能力と言いますよね。

 もちろん自浄能力を失った国民は、自分自身にその力を働かせるということも出来ません。

 ひたすら身近な人間の顔色ばかりを窺い続けてくたびれ果てて力尽きてゆくだけの人生になるのですよ。

 ゆくべき方向に、視点のベクトルが向いていないからです。

 これは大変に不幸なことではありますまいか。

 そして、こういう身内の顔色以外何も観ていない人達ばかりの世界の中で、ほんの一握りの人達だけが本当のことを見て、本当のことをしている。

 しかし、それらの対象を世人は誰も見てはいない。

 まるでギリシャ神話のカサンドラのようです。

 正しいことを言っているのに、誰にも話が通じない。

 ほとんどの人に、物を見る能力がないからです。

 そのような人達ばかりで成り立っている社会の必然でしょう、この国の生産力は先進国の中で唯一下がり続けていて、近年では国民辺りの総生産力ではお隣の韓国に抜かれています。

 学力の最大値では途上国であるフィリピンにも抜かれている。

 最大のストロング・ポイントであったはずの技術力ももはや二等国レベルに成り下がり、頼みの綱は観光による外貨獲得という、まったく何も物事を成す力の無い小国のような有様の選択を政府はしました。

 ローマ帝国は国民を家畜にしておくためにはパンとサーカスを与えることだとして愚民化政策を行って挙句滅びました。

 日本と言う国は、すでにそのサーカスを披露するピエロの役割を担おうとしている。

 実にバカバカしい話です。

 身近な他人と競争をすることばかりに専念するように奇形化教育で歪みきり、なぜ自分がその競争をするのか、その競争の先には何があるのか、競争をさせているのは誰なのか、そして自分はどうなるのか、そのようなことをまったく考えられなくなった、蟲毒の箱の中の虫のような生き方しか出来なくなっている。

 そのようなさもしい競争をするとどうなるか。

 たった一つ生き残った毒虫になるのか。

 いえ、そういうことはまずないでしょう。

 毒が回って死ぬだけですよ。

 それが、箱の外を観ることが出来なくなった人間の末路ではないでしょうか。

 世界のことを何も知らず、歳を取るまでそうやって生きてゆくというのは、一体どのような気持ちであるのでしょうか。

 私にはまったく理解が出来ません。

 できないのですが、とりあえずもし、少しでもその箱の中に疑問を持つ人がおりましたら、視点のベクトルを変えることをお勧めしますよ。


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