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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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ファシズムとスピリチュアルに学問のすすめ

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「丁寧な説明をする」との首相の言葉さえ実行されないまま、国葬が強行される日にこの記事を書いております。

 友人の中には「今日は絶対に都心に近づきたくない」と言っている物もありました。

 この不安は決して一個人の心中の物だけではないことでしょう。

 昨夜、地元の有名な料亭「田中家」さん(浮世絵でも知られており、坂本龍馬の婚約者、おりょうが働いていたことで知られている)の前を通りがかった処、制服警官やスーツ姿のSPが周辺道路を閉鎖するように警戒しているのに出くわしました。

 これは恐らく、海外からの貴賓が会食をしていたということなのでしょう。

 官民に渡って、この国葬が国を挙げた危険行為だと認識している。

 それを理もなく、あるいは理があったとしてもその説明なく、一部のボーイズ・サークルの中だけで決定して強行する政府は、完全に民主主義の基本を破壊したことになります。

 三権分立においては、このような場合には国会を開いて会議をすれば良い物なのではないかと思うのですが、COVIDにおけるパラダイム・シフトで現政権が選択した政治手段は「国会を開かなければごり押しが可能だ」という物でした。

 国葬の台本によると、国家神道の儀式であるということが明記されているというリークを目にしました。

 やはりこれは、特定信仰による政権の専横だと言うべきことではないでしょうか。

 私は長いこと、世界史における信仰と思想の歴史、およびそれらの地政学的な変遷とアジアの思想の変化を身体文化と言う視点から書き綴ってきました。

 明治革命から日本は限りなくファシズムに向かいがちな近代化へと進みました。

 福沢諭吉翁の「学問のススメ」を読めば、そこでは激しく当時既存の儒者的思想が叩かれています。

 大人と小人の階級区分が厳しく、高い身分の物が国を政り、低きものは獣が養われるようにして暮らしていた前近代のアジア社会においては、儒者の腐敗が著しく、それそのものが社会の病となっていたことがうかがえます。

 福沢翁の思想が面白いところは、その状況を真向否定しつつ、同時に悪弊は飼いならされた民の側にあると激を発しているところです。

 封建制の時代までは責任は官の側にあったのですが、以後は民権の時代であるため、民衆が自ら責任を持たねばならないという思想です。

 そのため、それに叶わない人々は「愚民」と罵られてこれを根本から叩きのめして矯正しようというのが「学問のススメ」の内容です。

 一説引用しますれば「政府一新の時より在官の人物、力を尽くさざるにあらず、その才力また拙劣なるにあらずといえども、事を行うに当たり如何ともすべからざるの原因ありて、意のごとくならざるもの多し。その原因とは人民の無知文盲すなわちこれなり」

 とあります。

 既存の封建体制から継承された政府の官側は決して劣ってはいないが物が旨く行かないのは人民が愚かであるからだ、と要約できましょう。

 この結果「今日に至るまでいまだ実効の挙がるを見ず、政府は依然たる専制の政府、人民は依然たる無気無力の愚民のみ」と書かれています。

 政府は権威主義であり、人民は愚民だということです。

 するとどうなるか。

「我が全国の人民数千百年専制の政治に苦しめられ、人々その心に思うところを発露するに能わず」

 とあり、ここからが重要なので少し現代語に訳してみます。

「結果人民は、世を欺いて安全を盗み、偽りで罪を逃れて、嘘を吐く処世術が人生必須の物となる」

 これは、現代社会のサラリーマンそのものではありませんか。

 そしてどうなるかというとこう続きます。

「不真不実は日常の習慣となり、恥じる者もそれを疑う物もなく、恥を知る心はなくなる。こんな連中が国事を思うことは出来ないし、それを受けて政府はますます虚威はって権威主義となる」

 これ、現在の世の中そのものですよね?

 福沢翁の時代にもうこのことは見越されていたのです。

 そして、刮目していただきたいのはここからです。

 ここからは重要なので原文に戻します。

「ついに上下の間隔絶しておのおの一種無形の気風をなせり。その気風とはいわゆるスピリットなるものにて、にわかにこれを動かすべからず」

 スピリットという言葉が出てきましたよ。

「近日に至り政府の外形は大いに改まりたれども、その専制抑圧の気風は今なお存せり。人民もやや権利を得るに似たれども、その卑屈不振の気風は依然として旧に異ならず」

 どうですか、これ、完全に翁の言ったとおりになってますよね、この21世紀の今日現在。

 私は以前からこの国の政治は「地方の殿様みたいな奴らとそれにへつらうドン百姓みたいな奴らでなりたっていて全然民主主義ではない。民主主義とは国民主権であり政治家はその代行者であるなずなのに」と繰り返し書いてきましたが、これ、翁の時代にすでに言われていたことでした。

 結論も同じです。

 私が、仏教にあるように自己の確立が重要だと説いているのに対して、翁は学問をして国民は自らを立てるべしとしています。

 そう考えると、もうお釈迦様の時代から制度は変われど人心の低いところは変わっていないのではないかと感じます。

 振り返って、福沢翁が書いた「スピリット」という言葉に目を向けたいと思います。

 現在では、翁が言うような愚民はスピリチュアルが大好きです。

 現実的な努力や政治姿勢で人生や世の中に取り組むのではなく、加持祈祷と信仰で生きている。

 本日行われる国葬、カルトと国家神道の主催イベントですよね?

 彼らが国を乗っ取って行っている。

 そんな狂った状況を成り立たせている物はなんでしょうか?

 権威主義です。

 愚民とスピリチュアルと権威主義、この三位一体が国を蝕んでいる。

 これを反知性主義と言います。

「そんなこと当たり前だろ」と対話をせずに押し付けてくる上司、懲罰を指導の基底をしている教師、「人と違う恥ずかしいことはするな」と言ってくる親、「みんなそうしている」と言う友人、自分たちの幸せだけを求める恋人、これらみんな権威主義の愚民です。彼らが世の中を腐敗させている。

 ただ家庭内の悪口を繰り返すだけの老人、笑顔で物事を押し付けてくるおばさん、愚痴しか言わない若い女性、みんな愚民です。

 こういった人たちの、いえ、全ての我々が持つ人間としての愚かしさ、卑しいさがこの国の権威主義の源泉です。

 翁がすすめたように、知性を持ってしかこの事態には対応できません。

 物を学び、誠実に生きる道を獲得しなければ、世の中はどんどん悪くなってゆきます。

 いまこそ恥を知り、生き方を正してゆきましょう。

 一人一人が良く生きるということが集積されて、良き国になるはずです。

 福沢翁は当時の儒教的制度を激しく否定していましたが、同時にまぎれもなく純粋な儒教的教養主義者でした。

 一人一人が身を修めることが一つ一つの家を治めることに繋がり、それが集まってよい世の中となるという考え方は、腐敗する前の儒教が持っていた根本的な思想です。

 いまいちど我々は、西洋人のお仕着せに下層民族として隷属するのではなく、アジア人としての背筋を正して我々なりのやり方で取り組んでゆこうではありませんか。

 

 

 


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