少し前、書き仕事の合間に大手チェーンの古本屋さんに行きました。
部屋にあふれている本の山を少しづつ切り崩して引き取ってもらうためです。
買取査定の間に店内を回って持って帰る本を探していたのですが(古書店あるある)、これが、驚くほどに欲しい本が見つかりませんでした。
COVID以降、古本屋を散策するというようなことからは距離を取っていたのですが、その間に私が読みたいような本がすっかり姿を消していたようです。
マンガに至ってはもはや目が見方を忘れてしまって何がなんの本だか認識が出来なくなってしまっていたので論外ですが、それ以外の文庫などに関しても、読みたいタイトルが見つけられない。
愛読していた作家の読んでいない本が見つかりません。
パラダイム・シフトが始まってからこっち、歴史を学ぶために少なくとも百年は前の小説を中心に読んでいました。
それ以外は古典や哲学の本ばかりです。
久しぶりに現代作家の小説でも読もうと思ったら、まったく興味が掻き立てられない……。
どうやら私が知らない間に、私が目を向けていなかった人たちがずいぶん沢山作品を出していたようですが、どれも特別関心を引きません。
以前読んでいたけれども、手癖で同じ物ばかり出すようになってしまった流行作家のコーナーは見つけたのですが、いまは手を伸ばそうとは思えませんでした。
また別の作家さんは、新しい作品が出ていません。
途方に暮れながら彷徨っているうちに思ったのですが、もしかしたら私がこの期間に読んでいたバロウズやハワードのような作家はもう、この時代には出てこないのかもしれません。
また、村上春樹以降、あのサイズの作家がこの国に出て来たというようにも感じません。
ずいぶんと小粒な時代になってきているのではないでしょうか。
あるいは、もしかしたら私があまり読んでいない女性の作家の中にそのような人たちがいずれ現れるかもしれません。
敬する梨木果歩先生などにはぜひ新しい作品を読ませていただきたいところです。
時代のペースから足を踏み外した私は、何週も書店を回っていたのですが、その中でふとある作家に思い当りました。
北海道の土着作家、東直巳氏です。
ずいぶん新作の話を聴かないけれど、いくつものシリーズを抱えてらしたので一つくらいは新作が出ていないかと思ったのです。
彼と初めて出会ったのは90年代のことではなかったかと思います。
デビュー作品の、あまりの泥臭さには非常に仰天したことをよく覚えています。
北海道の土俗的な生活を描き続けるドメスティックな作家であるために、地方都市のいなたさが持ち味となっているので、より田舎臭く感じたのであろうと思います。
この土着性へをきちんとかけるということは、それに対して自覚的であるということで、短編の中では北海道の土着的な人たちの当人たちが無自覚な異様さに対して「き、君たちは、一体どこから現れた人間なんだ」とサラリーマンがうろたえるという作品もありました。
逆に言えば、本土の激動の時代から取り残された人たちの体感を描いている作家だとも言えるのではないでしょうか。
東先生、自分のことをプロレスラーのザ・グレート・カブキに人違いされたことがあるというのをネタにしています。
カブキブームなんてもはや誰も覚えていない80年代のお話。
そんな時代の作家がブレイクしたのは、21世紀に入ってから、地元の俳優である大泉洋主演で作品が映画化されたことがきっかけだったように思います。
それからの彼は、ノンシリーズにおいて驚くほどに冴えた筆致を見せてくれました。
どれも名作だと言ってよいような鋭い作品群です。
しかし、それも2010年代に入ってから目にすることがなくなりました。
今回探し当てることが出来たのは、シリーズ物の主人公たちがそう登場するスーパー東直巳大戦のようなシリーズの最新刊でした。
それも出版されたのは2011年。
以後、彼の作品は上梓されていないようです。
この作品の主人公は高倉健であろうと想像されるのですが、彼もまた2011年では「老けた」と陰口を叩かれる様になっています。
伝説の殺人マシーンのようなキャラクターで、過去を恥じていまは山の中に草庵を構えて世を忍ぶ生活をしています。
シリーズの新作が出るたびに山から下りてきて大量虐殺をしてはまた山に帰ってゆくというなにやら土俗的な神様のような存在なのですが、今回の作品の冒頭でもやはり人里に居りてきて下界の変化に驚くという姿が描かれています。
その変化した下界について、いつもの東節の土着の人々と行政との軋轢と癒着が書かれるのですが、そこで語られる話が、村の公共施設を巡る不正な公共資金、年額90万。
これが、私たちが知らない国、北海道という土地のドメスティックな罪悪を描くリアルな数字なのでしょう。
このわずかとも言いかねない金額の積み重ねと、それらの群がるヤクザや詐欺師、ロシアの犯罪社会との繋がりという混沌。
果てしなく古臭く、泥臭く、情けない。
そして、これは間違いなく、独りの作家が自分の命の経験で得た等身大の視点と皮膚感覚で書いた作品です。
そういった命で描いた作品は、生涯に無限に書けるという物ではないのかもしれません。
これは恐らく、唯一無二の作家としての証明でしょう。
おそらくは歴史は残らないかもしれません。
しかし、本物の血肉の通った作品です。
それは天に通じた本物の小説です。
そういった物にしか、中々手が伸びなくなってしまいました。
読み手のおごりと言うものかもしれません。