さかなクンさんの異様性がきちんと描かれていると書きましたが、これはそういう意思表示だと言う描写は、その後すぐに出てきます。
のんさん演じる成功したさかなクンさんの姿が短く描かれたあと、物語は小学生時代のミー坊から時系列で描いてゆく本編に入ります。
そこで出てくるのが、下校時の小学生に声をかける近所の不審者、ギョギョおじさん。
これ、演じているのがさかなクンさん本人なんですね。
服装もキャラクターもそのまんまです。
それが下校時の小学生に声をかけて「ギョギョ! 君が持っているのはお魚さんのご本ですね。一緒にお魚さんのお話をしましょう」と、いまならスマホで声掛け案件として回ってくるような感じで描かれます。
これは私がいつも思っていることとリンクしました。
「不審者による小学生への声掛け案件発生」というニュース速報が携帯に入ってくるたびに思うのですが、それは本当に自然災害警報と同じくそうして周知するようなことなのでしょうか。
単に罪のない近所の人だったかもしれない可能性はないのか? と感じ、硬直した偏見のまかり通るディストピアに居るような感に包まれます。
私だって近所を歩いていれば知らない爺さんたちから話しかけられるし、それがきっかけで立ち話もするようになる。
そういうこととどう違うのだろうかと、この国の閉鎖性に気持ちが沈みます。仕方ないのだろうけれども。
一度、公園でキャリステニクスをしている時に一人で居た小学生に「ね、一緒に遊ぼう」と言われたのを断らなければいけなかったことがあるのですが、いまでも胸が痛みます。彼女が傷ついていなければいいのだけれど。
もちろんそういう世の中にしたのは、本当に変質者が存在しているからなのですけれども。
以前にも書きましたがその手の変質者は発達障碍者が多く、それは本人が望んでなったことではない。
そこにたどり着くと、どうしても悲しい気持ちになる事象です。
ギョギョおじさんもこの哀しいサイクルのど真ん中に居る人で、これは私たちがさかなクンさんに元々抱いていた違和感やうしろめたさを掘り起こして直視させる存在です。
最終的に彼は、子供にいたずらをする変質者として警察に連行されて行ってしまいます。
90年代モダンホラーで言う、ボート小屋おじさんです。
一方でミー坊の方は、このボート小屋での一件も含めた通過儀礼を通して自分の道に次々現れる現実世界の残酷と向き合ってゆきます。
やがてミー坊が高校生になると、キャストが子役さんからのんさんに戻ります。
あらお美しい、と油断していると、周りに出てくるのはバリバリのヤンキー同級生たち。
学校は壁中に落書きがほどこされた平家の落ち武者だったら壁に激突しちゃうような状態。
この映画、子供時代のミー坊の部屋にある科学玩具や、学校に居る人たちの外見など、まるでケンちゃんチャコちゃんシリーズのように80年代を再現しているのが素晴らしい。
ということはつまり、さかなクンさんが高校生になると、そうか、私より少し年上だからバリバリ校内暴力のツッパリ世代か、とうなずかされます。
ちなみに幼少時のさかなクンさんの部屋には、壁に水木しげる先生デザインのべとべとさんの絵が飾ってあります。
これはさかなクンさんが、子供の頃は妖怪が好きで、そこからタコを見てそれは妖怪だと思うようになって、そのきっかけで魚が好きになったという出来事に由来しているのでしょう。
後で知ったのですが、この映画の監督は80年代のバブル時代を描いた小説「横道世之介」を映画化した方だそうで、この時代を書くには手腕がある方だったのですね。
と、思ったのですがさらにこれ、後で知ったのですが、さかなクンさん、私と同世代でした。そんな年上じゃなかった。
ということは、ここで描かれているツッパリ同級生や荒廃した校内の雰囲気は、校内暴力全盛期の物ではないですね。
学級崩壊世代の物です。
私がティーンエイジャーだったころはこんなツッパリはもう居なくてチーマー世代だったはずなのですが、舞台は千葉の漁港だそうで、そうか、同じ時代で渋谷に出入りしていた横浜のガキと千葉だとそれくらいの文化の違いがあるかもしれないと思わされました。
だって、私が二十歳すぎても群馬に言ったらまだリーゼントのツッパリ高校生いたからな。
このようにディティールに目を向けてみてゆくと、元々妖怪好きからタコが好きになり、そこからさかなクンとなって行ったミー坊が、地元で妖怪のように扱われてお呪いを唱えられたりしていたギョギョおじさんに惹かれて行ったということの補強が出来ていることに気づかされます。
やはりこの作品、信頼できる。
つづく