矢沢永吉氏が極めて大きな天災の訪れている中でライヴを開催し、地元の人たちに迷惑をかけたと言う話題がありました。
批判の中には、台風の中でライヴをして周りに迷惑をかけるなんて全然ロックじゃない、という物があったのも目にしました。
私はこういう論調を目にするたびに「ロックかどうかはお前が決めることじゃねーだろバカじゃねーの」と思うのですが、それはそれとしてライヴの開催に関しては大いに批判的スタンスにあります。
そもそもがパンデミック下で興行をしている人たち全般に異議がありますし、より新規感染者が多い時期にライヴをしたアーティストたちにはキャンセル・カルチャーを発動させています(さよならOORにRW、キミたちの音楽が好きだった。でも君たちのリリックはみんな商業主義の中身が無い空言だったんだって気付かされたんだ)。
それはそれとしてまた別のベクトルとして、矢沢氏に対しては思うところがありました。
「もう若い人たちには神通力が無くなってるんだなあ」と言うことです。
紛れもなく、彼は神でした。
80年代には、ジャニーズのアイドルの子たちが「永ちゃんカッケー」と素直に憧れを出しており、あらゆる階層のどんな人たちでも、彼を神として尊敬していた印象があります。
私も当然その中の末端の一人でしたが、何分なんでも分析をする気性なので、興味を持つほど彼のことを調べるようになりました。
結果、彼の発している強烈なメッセージ、つまりは「成り上がり」ですね。
そのタイトルの彼の本は、激論と呼ばれ、バイブルとされていました。
これを読むとね、彼のその、商業主義、物質主義、権威的な成功とその主張と言う物がよくわかります。
これはゲトー育ちのラッパーたちと共通した物です。
俺が本物だ、金持ちで成功した天才だ、と自己喧伝(レペゼン)をします。
この価値観は、文脈が分からない人にはまったく理解が出来ず嫌悪感も抱かせるもののようなのですが、このように発信することは極めてリスクが高いことであり、本来しなくてよいことなのです。
それを敢えてするということろが、ただのその場限りのお調子者ではない、生き方の見栄を切っているようなところがあります。
バサラ武将の名乗りのような物でしょうか。
ひっそり息を殺して居れば安全なのですが、わざわざ危険地帯の戦場で派手な格好をして耳目を引きます。
自信と実力が無ければ出来ることではない。
その潔さが矢沢永吉氏の魅力にもあったように思います。
彼の言葉で言う処の「ビッグ」ビッグになってそれをさらに公言する。
しかし、これは同時に、他人の作った価値観の中で生きる、ということでもあります。
彼の激論を読むと、若い頃、貧しくて昼食代もない彼は仕事場でご飯を食べられないことを知られるのが恥ずかしくて、同僚たちの「俺はもうかつ丼食べちゃったから」と吹聴してごまかしていたそうです。
スモール!
矢沢、スモール!
ちっちぇー!!
果てしなくちっぽけなインチキ人間の発言です。
かつ丼と言う発想もまた果てしなく貧乏くさい。
でもそれは時代のためでしょう。
かつ丼だビフテキだと言っていれば人からビッグにみられるという時代だったのでしょう。
自分を大きく見せたい、というこの根源的欲求、これが彼の中で非常に大きな物であったことが分かります。
そしてそれ、いまの我々の価値観で言うと、果てしなくちっぽけな人間の欲求だと感じませんか?
そう感じるのは、戦後日本の貧しい時代が終わったということなのでしょう。
いま、我々はみんなが衰退した国に居ます。
矢沢が成り上がって来た時代とは違って、もう右肩上がりという時代ではありません。
世界的においてゆかれて衰退するということが約束された時間の上に我々はいます。
見栄を張っても何の意味もない。
それよりも具体的に、この沈みゆく船に対処をしないといけない段階に居ます。
矢沢の激論には、バンドを組んでいた頃に中流階級のぼっちゃんが居たからイジメて食事を巻き上げていたなどという武勇伝が語られています。
それ、尊敬できるお話?
そういう人です。
そういう人がそういうことを言うのを「社長、かっけーっす!」とみんな揉み手であやかろうとしていた。
それが日本の高度成長期です。
そして大量消費社会に時代が移行するころには、彼は殿堂入りして神棚にあげられていた。
そういった経緯を経てきたすべての物が今、神棚から引きずり出される時代が現在です。
普通にただ、自分の稼ぎで質朴にお昼ご飯を食べている人が、誰にもそれをカツアゲされないのが良いという時代に来ています。
人によっては、そんな当たり前のことが通じなかった時代があるのかと驚くこともあるかもしれません。
それがつまり、時代が変わったということなのでしょう。
90年代には、故ナンシー関氏が矢沢のことを「しょーもない男ではないか」と明確に評していました。
それが書かれた本の横には、年収三百万円時代が来るということが書かれた本が並んでいたように記憶しています。
いま現在、中間所得が三百万円台であることに驚く人は少ないと思われます。
しかしそれが恐るべき不吉の時代の到来であると言う見解があらわれたばかりで、ハッタリとパフォーマンスで大金を掠め取れるという時代がその直前まではあったのです。
いまの我々は、そういった嘘と張ったりででっち上げられた物の負債を負わされて、一つ一つ片付けてゆかねばならない時代に生きています。
アメリカで語られる「ベビー・ブーマーが世界を腐らせた」という史観がまさにこれでしょう。
世界中に格差を広め、貧困を創り出し、環境を破壊し、経済を破たんさせた。
それがベビー・ブーマーたちの経済がしたことだと言われています。
長期与党の化けの皮がはがされ、その権威が地に引きずり落されようとしているいま、彼らと同種の男性性を持つ矢沢氏の威光もボリュームダウンしつつあるように思います。
なぜこのようなことを書いているかというと、このような昭和の男性に大きな影響を与えた傑物、アントニオ猪木氏が亡くなったからです。
彼こそはまさに、そちらの方向性における「昭和の男」の中の最大の物だったのではないでしょうか。
他の昭和ハッタリふかし男とは桁外れのほら吹きで、驚くほどの経済効果を持ち、国際的な政治にまで強い力を持っている。
このベクトルで言うならこれ以上の男はいないでしょう。
何しろ、自分で毎週金曜日のゴールデン・タイムに高視聴率番組を所有し、ドーム興行を何度も成功させ、キューバや北朝鮮と言う社会主義国へのルートを独自に所有していた上に湾岸戦争では単身イラクに乗り込んで人質を救出している。
どれだけ矢沢氏やかつての銀幕スターたちが大物だったという話があったとしても、こんな人間はいないでしょう。
いや最後のだけでも普通の映画だったら主役ですよ。
それがあまたあるエピソードの一つだなんて。
桁で言ったら0の数が違う。
政治ウォッチャーのプチ鹿島氏の言葉を借りるなら、それだけの傑物でテレビの英雄でありながら、決して善人の英雄ではないところが彼の凄いところです。
数々のスキャンダルが出てはそれを興行にそのまま利用するというヤマシの面をあらわにし続け、莫大な借金を返済せず、それどころか自分の弟子や社員からも隙あればお金を借り上げようとするところなど、どれだけの人の人生を迷わせたか分からない。
その人を迷わせる力がそのまま、金日成を迷わせ、カストロを迷わせ、サダム・フセインも迷わせて世界を煙に巻いてきたということなのでしょう。
それだけの、とらえどころのない巨人であったということなのではないでしょうか。
もちろんその成り立ちには、タッグ・パートナーであったジャイアント馬場氏というこれまた昭和の大スターや、二人の師である力道山など、巨人たちとの日々があったことは間違いないことだと思います。
平成に、彼ほどの異常なサイズ感の大物が出て来たという記憶はありません。
現在スポーツ界で歴史的な記録を作っているという異常人、大谷選手に関しても、猪木氏のような人としての異常性はないように思います。もっとちゃんとしている感じがします。
これからの時代、先進国圏であれだけの桁外れな人間を見ることはないのかもしれないですね。
あるいはもしかしたら、坂本龍馬や西郷隆盛のような人達というのはあのような物であったかもしれません。
世界は確実に変化してきているように思います。