さて前回、チベット仏教は東に伝わった仏教が失っていった、身体性の「濃い」ところがあるという話を書きました。
現在、日本の仏教ではおそらく房中術や武術を伝えているところは殆どないでしょう。
ヨガは一部では伝わっているといいますが、これも一般的にではない。
日本仏教はローカライズされて、だいぶんそぎ落とされた部分がある。
その、濃い部分をさかのぼって研究しているのが仏教武術研究家の私の仕事なのですが、川口慧海和尚はその大先人と言ったところです。
しかし、慧海和尚の「チベット旅行記」は、ちょっと当時の明治期の日本人が書いた物と言うこともあってかちょっとだいぶ文明人てきな、西洋文明に触れてしまった人間の価値観をフィルターとしているようなところがどうしてもあります。
さらに言うとこれは邪推なのですが、当時のエログロ博物趣味のような物もあったようで、この本がベストセラーとなった背景には必ずしも純粋な学術的観察だけがあったのではないかもしれないという部分があります。
私が読んだ版では冒頭に文化人類学者の前書きがあり、これらのエログロな部分に関する慧海和尚の誤解が本編にはあると注意がされています。
まぁ、他に誰も日本人がいない段階で一人の人間が見聞したことだけを書いているので、誤解があるのは仕方がない。
これは当たり前のことです。
私が書いていることにだって沢山間違いはあるでしょう。
海外に行ってマスターたちから教わったことにも誤解やすれ違いがあるでしょうし、師父や老師から教わったり書見で得た見解にも私の心得違いが反映しているはずです。
それらは複数のソースを元に精査検証されないと、どうしても精度が粗くなってしまいます。
これから書くことは、どうかそれらを踏まえた上でお読みください。
明治時代のなんの情報もない時代に単身鎖国状態の国に潜入した外国人のレポートを、私と言う個人が解釈して書いている物です。
さて、そんな視点から川口慧海法師の見解を要約しますと、とにかくチベット人は不潔である、ということがひたすら書かれます。
予告していた気持ち悪い話が徐々に始まりますので、どうか皆さん、ホントに悪いことは言わないので今のうちに読むのを辞めてください。
モンゴルの騎馬民族なども風呂嫌いで日本に来ると水に入れられるのが怖くてキャーキャー騒ぐという話を何度か聞いたことがあります。
そこと繋がった文化圏のチベット人に入浴の習慣が無いのはそのために納得が行くのですが、奇妙なのはこの不潔さがある種の文化となっているらしいということです。
まるで中世のキリスト教徒が、清潔好きなのは傲慢であって不潔なのが信仰心の証なのだと考えていたという説のように、かなり意図的にチベット人は不潔を維持していたようです。
と言うのも、彼らの間では、手を洗ったり顔を洗ったりすると「あいつは不潔な人間だ」と後ろ指を指されることがあったというのです。
これがどういうことかというと、二つの解釈が読み取れます。
一つには、作中に書かれていたことで、かつてチベットの水が呪いで赤く染まったことがあったという出来事があったそうで、その水を飲んだ人々は死んでしまったのだと言います。
法師はこれを、恐らくはなにがしかの鉱物の流出ではないかとみていたように記憶しています。
このように、水に毒性がある地域では、顔に水を付けたり身体を水に浸したりということは、毒が回る不衛生な行為だと見なされたのではないか、というのが一つの解釈です。
もう一つの「不潔」の意味は、これ、性的に不純である、と言う意味です。
これは本質的な話になってきますので、次回にて改めましょう。
つづく