主人公のラーマが桃太郎さんのモデルだと言われるラーマ王子になぞらえられていると書きましたが、このラーマ王子、タイではラーマ・キエンというお話の主人公として語り継がれています。
内容の大筋はインドでのお話と同じです。日本に伝わる前にタイを経由したのですね。
ただ独自の面白さとして、ラーマ・キエンではラーマ王子がシータ姫を取り返すために修行して身につけたのが、ヨガから編み出した古式ムエタイだとされているのですね。
RRRとトム・ヤク・クン!の相似について書きましたが、そこでもかぶっているんですよ。
中国ではシヴァ神のヨガから少林拳が生まれましたが、タイではムエタイです。
RRRのラーマもまた、物語のクライマックスでシヴァ神の力で悟りを得て半神になります。
ほんとに、第三の目を開いて神になるんですね。
あの第三の目というのは、シヴァ神が修行の結果に悟りを開いた時に開いたものだとされています。
ラーマもその開眼の勢いのままにクライマックスへと駆け抜けてゆき、驚くべき活躍をするのですが、これは多分、インドの神話文化について馴染んでいる人なら当たり前の展開なんですよ。
だって、彼は神になったのですから。
つまりこれは、インド神話の法話なんですね。
タイ映画はみんな仏教法話で、トニー・ジャーのムエタイ映画でもいきなり驚くような展開になるようなことがありましたが、今回のRRRは完全にそういった、ある種の神話として読むのが適切であるように思います。
ただ、やっぱりここで突然、死にかけだったラーマが神になるというのかがわからない人が殆どだと思うので、解説をします。
インドのヨガ、インド医学に端を発する東洋医学の流れでは、バキバキに骨を折られると、それまで詰まっていた気の通りがよくなって超人に覚醒するという考え方があるんですね。
アジア映画好きの人はこのパターンを過去にいくつか見ています。
一つ目は、チャウ・シンチ―のカンフー・ハッスルです。
あの物語でも主人公は全身の骨をへし折られ、応急手当で包帯巻き巻きのミイラのようになったところから、さなぎから蝶が孵るようにして超人として覚醒します。
これ、冒頭から予言されていた主人公の経絡の流れが良くなって気が通ったからなんですね。
功夫は悟りへの行なので、単に体力が勝っただけではなく、精神的にも覚醒して如来の力を手に入れます。
これ、武侠小説ではおなじみのパターンなのですが、怪しむことはないんですよ。
ヨガと言うのはそういう物なんです。
ヨガと言うのは「捧げもの」もっというと「いけにえ」という意味らしくて、自らをいけにえに捧げるようにして苦行をすると覚醒するというシステムなんですね。
だから、自ら背骨を砕いたりして覚醒をさせようとするんだそうです。
脊椎神経に刺激があるから、脳に影響があることがあるんでしょうね。
もし失敗して廃人になったとしても、その時はそれで、立派な聖人だとして祀られることになると言います。
お釈迦様も最初は危険な苦行をしていたのですが、途中で「いや、これはないか違うのじゃないか」として瞑想だけで悟りを得る道を切り拓いて、悟りを得た行者の中でも最も上位の覚者となったということです。
なので全身砕いて悟りを得るパターンではお釈迦様のような仏陀にはなれないのですけれども、それより下の段階の悟りにまではいくわけです。
このような人達は、日本では「インドの仙」と訳されます。
これはヨガが中国に伝わった時に、その気功で悟った人達のことを仙と言ったからなのでしょう。
この仙のことを、タイに伝わった仏教ではリシとかルーシーと言うのですね。
で、この行者たちが手足を曲げたり伸ばしたりして気の通りを良くするタイ式ヨガのことを、ルーシー・ダットンというのですね。
私がタイに修行に行ったのはこれを学ぶためです。
たびたび引き合いに出しますが、トニー・ジャーの古式ムエタイ映画「マッハ!」は実は三部作です。
一作目では奪われた仏頭を取り返すために田舎の青年が都会に出てゆきますが、二作目、三作目では彼の前世が描かれる史劇となります。
その過去世で、トニー・ジャーはやはり敵に捕まって手足を砕かれて腱を切られて牢屋に閉じ込められるのですが、後に救出されて治療を受けた後、ルーシーたちを描いた壁画からヨガから学んで、超人に覚醒するんですね。
これもやはり、ただ体力だけでなくて精神が覚醒して聖者として覚醒します。
同じことがRRRのラーマにも起きてるんですね。
両足をへし折られたまま訓練をし、治療を受けたことで経絡の流れが通るようになって覚醒すると言う、ヨガの行のイニシエーションをきっちり通過しているんですよ。
なので、こういう習俗を初めから知っているインドの人達からすると当たり前のことなんですが、外国人には中々そうはいかないところですよね。こういうところが適当じゃなくてちゃんと考えて作られているんだということが分かると作品への肯定感が爆上がりします。
いや、それにしても強すぎるだろ、という声もあるでしょう。
しかしこの映画、ちゃんとディティールが利いています。
ラーマは、シヴァ神から弓と矢を授かって後半の戦いを一気呵成に駆け抜けます。
これがミソです。
ラーマ王子の物語「ラーマヤーナ」では、ラーマ王子がシヴァ神から最強の宝貝(神器)である弓矢を授かって敵を倒すのですが、この「ラーマヤーナ」日本の国民的アニメで聞き覚えがある人も多いのではないでしょうか。
悪役のムスカ大佐が地上に超兵器を落とす時に、それがラーマヤーナに書かれたインドラの矢だと言っているのですね。
インドラと言うのはインド神話の雷神で、日本には帝釈天として伝わっていますが、実はラーマヤーナにはこのインドラの矢というのは出てきません。
出てくるのはラーマ王子のシヴァ神の矢で、おそらくはラピュタでは何かの都合でここをシヴァから言いやすいインドラに変えたのではないかと憶測されます。
でね。
ラピュタのヒロインがシータと言う、ラーマ王子の奥さんと同じ名前なのは明らかにこのためですね。
あのラピュタの争奪戦を招いた超破壊兵器がシヴァ神の矢なんですよ。
一説には、これによって一度世界が滅びたとさえ言われています。
そのためラーマヤーナではシヴァ神は、ラーマにこれを使う時にはよく考えて使えと諭し、発動させるには三つの条件が必要だと言ったそうです。
一つは正しい精神。二つは目。そして三つはマントラです。
これ、RRRのラーマはちゃんと満たしています。
葛藤の末に牢獄の中で精神が覚醒し、額にはシヴァ神の第三の目が覚醒し、マントラを唱えています。「装填、狙え、打て」と。
やっぱりね、ちゃんと文化的背景が分かれば物凄く納得のいく練り込まれ方をしてるんですよ、この映画。
RRR、普通に見ても充分に面白い映画なのですが、中で起きるかなり勢い強めの展開をただのとんでもだと受け止めてしまってはあまりに貧しい解釈をしかねない。
それが作り手にとってはどのような意味を持っているのか。
現地の感性ではどのように受け取れるのか。
そういうことを知れば一層に納得し、この映画の凄さを堪能できると思い、このような記事を書かせていただきました。
RRR、素晴らしい映画でしたね。さぁ、この記事も次回でおしまいです。
つづく