RRRに関する記事はこれでおしまいと書きました。
今回はまず、RRRがいかに素晴らしい映画かは分かっても、あの矛盾に関しては納得がいかんという人のための解説を描かせていただきます。
前回、主人公のラーマはラーマヤーナの主人公であり、ビーマはラーマ王子の家来であると言うことを書きました。
しかし同時に、二人は実在のインドの革命家でもあります。
ラクシュミー・バーイーやガンジーとならぶ解放運動の英雄たちです。
しかも、二人は活動していた地方も時代も違う。
それをこんな風に架空の話の中で一つにしてよいのか、という話があります。
考えても見てください。
そもそも、彼らを実在の人物だということにしなければそれで済んだ話です。
なのに、監督はこの映画の主人公を架空の二人のアツい男にはせず、実在の革命家の姿に仮託しました。
これこそが、この物語が神話である、ということです。
そして、私がインドの価値観の外にいる人達のために書かなければいけないことです。
ラーマはラーマ王子と呼ばれ、実際にシヴァ神によって覚醒して古代の英雄そのものとなりました。
そんなことがなぜ、インド革命の下で起きるのか。
いまだに多くのインドの人達の間では、神話的思想が根強く力を持っていると聴きます。
それに基づいたカースト制度は廃止されたと言いますが、いまだに実際には社会通念として行き渡っていると言います。
なぜカーストが通ってしまうのか。
それは、前世のカルマと言う考え方があるからです。
低いカーストに生まれてきた人は、前世でそのような業を背負っている。
これは昨今の日本でもよく耳にするお話ですね。
現世の苦しみを解くには、前世の業を解かなければならないと脅かして人を支配するというのは、古来からの権力の常とう手段なのでしょう。
しかしこれ、元々は宗教的な考えで、自分の行動で生まれ持った業を乗り越えると言う、本来は救いのある構造であったはずです。
RRRでは、途中までみんなビーマが主人公だと思いませんでしたか?
先に出てきて活躍するラーマはイケてる仇役だと思ったでしょう。
でも、実は本編の主人公はラーマだった。
ラーマが神として覚醒するための、業の期間、業を犯し、それに苦しみ、そして瞑想と修行で目を開いてゆく過程が映画では描かれていましたね。
そして最後には、神として覚醒する。
業というのは自分で選べないどうしようもないものです。
その代わりに、突然起きる予想もしていなかった凄い幸運もまた、自分の意思とは関係なく起きる。
この物語は、ラーマが本当にラーマ王子になってしまった、という風にそれが表現されていましたね。
なぜこんなことが起きるのか。
いま書いたカルマの視点から言うと、彼のラーマ王子というのはシヴァ神と並ぶ最高神、調和の神、ヴィシュヌの生まれ変わりだからです。
ヴィシュヌ神は特に生まれ変わりの多い神様だと言われており、多くの姿で様々な時代や場所に顕れます。
中には生まれ変わり同士が出会ってしまうエピソードもあるくらいに多い。
なぜそんなことが起きるのか。
インド神話では、この生まれ変わりのことをアバターと言います。
あのアバターですね。
まさにSNSなんかのアバターのように、本体の神様がある超越的なところに存在していて、それとは別に複アカでいくつものSNSを使うように、並行的に沢山の生まれ変わりの姿が現れるのです。
これがインド的宇宙観なのですね。
拡大解釈すると、誰もがシヴァ神、ヴィシュヌ神の生まれ変わりであってもおかしくはない。
あらゆるところに神々が存在している。
自らの業を乗り越えれば、誰もが自分が神であったのだと言うことに気づいて覚醒するかもしれない。
私はずっと、インド神話という言葉を使ってきました。
ヒンズー教とは言っていないんですね。
ヒンズーというのは、仏教の後にインドの信仰を再編して、仏教的な哲学としてアップデートした物だといいます。
つまりこの、行によって覚醒、業を乗り越えるという発想は、仏教的な、あらゆるところに仏性が存在すると言う考えに通じる。
物語で語られる、誰もが体制による支配に対して立ち上がることが出来る、ということと通じませんでしょうか。
RRRというタイトルは、ライズ、ロア、レボリュート、立ち上がる、叫ぶ、革命を、とのイニシャルだと設定されています。
これは作中で起きたように、人々を現状から立ち上がらせるための叫びなのではないでしょうか。
どうしようもない現状の中で、ビーマがなしとげたことがまさにこれでした。
この映画そのものが、苦境の中でのビーマの歌声だった。
私は映画なかばからずっと泣き続けていました。
彼らの叫びが心に響いていたからです。
これは困ったなと少し思っていたところ、後ろの方からも男泣きが聴こえてきました。
同じ歌が響いていたのでしょう。
私はこの映画を、ディワーリの日に観ました。
インド文化圏の国での「光の祭」と呼ばれている期間です。
このお祭りでは、ラクシュミーという女神を祀ります。
彼女はヴィシュヌ神のシャクティ(性交で陰陽一対となる存在)で、ヴィシュヌ神がラーマに転生しているときは、シータ姫というラーマの妻に生まれ変わります。
RRRで我々が目にした彼女です。
劇中で語られるいまから100年前の時代、アジアは白人種の植民地政策によって侵略を受けていました。
そのころ、日本はアジア最初に近代化を果たして、西からの侵略の波に抵抗できる唯一の国だと目されていました。
中村屋さんに入り婿した有名な革命家のボースや、もう一人のボース、チャンドラー・ボース、また中国の孫文や、フィリピンのリカルテ将軍など、多くのアジアの革命家が日本で学び、拠点として活動をしたりしていました。
しかし戦後、政府のリードした愚民化政策により、日本はアメリカの属国となり、白人種の飼い犬になり果てたとは言えまいでしょうか。
先日、学校の先生が夏場に浴衣を着てきた生徒に対して少し注意を促したということを語っていました。
別に服装規定も制服もないんですよ。
なのに、自国の民族衣装を着ることを奇異に感じて警戒対象と見なす。
これが洗脳の結果でなくてなんだというのでしょうか。
要約するならば、白人の真似以外のことは「おかしい」と感じる感性が刷り込まれてしまっているということでしょう。
私も含め、多くの現代日本人がこうなってはいませんでしょうか。
私たちはここで、涙を取り戻さなければならない。
自分たちが誰なのかを思い出し、いまがどういう時代なのかを知覚して、このパラダイム・シフトに望むべきなのではないでしょうか。