今回はまた、以前にも書いてきたようなことを書きます。
というのも、中国武術への誤解に関してこの部分が非常に多いためです。
いま、私はまた新しい門派の武術を最初から学んでいる最中なので、このことを改めて感じている最中であるというのがそのきっかけなのですが、つまりは「中国武術は格闘技ではない」ということです。
つまり、徒手の戦いを主な目的だとしたものではないということですね。
もちろん、これには例外もあります。防身術のウィンチュンは初めから徒手のために簡化、編纂された物です。
老師から教わった岳飛拳も「これは軍隊で教える用に散手の技を編纂して作った、いわば格闘技だ」とのことでした。
このように、徒手での招式を繋いだものであるならそれは格闘技だと言えると思います。
しかし、より大きい、大門の武術、私はこれを大武術と呼んでいますが、それらの物は別に徒手で殴りあうことを目的に創られたものではありません。
もちろん、大武術というのは行のことを言うのでコンセプトとしてそれは当たり前なのですが、今回はそういう理念面とは別に物理的な面でのお話です。
ただ戦うための技術と言う意味で言うなら、中国武術は兵器を旨としています。
これはいま、通臂(通背)拳を一から学んでいることでよく体感させられます。
なぜ中国武術では突きを出した時に、後ろ手で顔をガードするのではなく肩や肘に寄せるのか。これは棍や槍を持った時の後ろ手の位置だからですね。
また、突き手の下に手を差し入れることさえある。これも、双刀などを使っているときの兵器想定の位置ですね。
中国武術の想定している「実用時」と言うのは一対一の素手の試合ではなくて、それぞれが兵器を持ち寄った集団戦、中国の言葉で言う「械闘」であるので、必然技術はそこを想定した物になります。
太平天国の乱や抗日戦など、私が学んでいる武術はみなそういった集団戦の用法を用いた実戦を経てきた物です。
大きな戦いで刀槍が用いられることが無くなった時代でも、これらの械闘の技術は使われ続けてきました。
私の世代で言うなら、新宿青龍刀事件と言う物がありました。
これらは中華系の人たちの中では常識の範囲の想定なのですね。
さかなのこの不良たちが見せるために持っていただけの凶器とは違います。
普通に都市の中でそういった兵器を用いた乱戦や襲撃を行う。
そういった械闘、日本で言えばカチコミと言うのが近いニュアンスでしょうか、そういったときには、相手のアジトのドアや窓を叩き壊して進入路を確保しやすい兵器が勝手が良いようです。
切れ味の鋭い兵器ではそのような使い方は難しい。
青龍刀(と、一般には言われていますが実際には新宿の事件で使われたのは中国刀ですね)のような物なら半ば鈍器のようなところがあるのでドアノブや窓を叩き壊せますね。
剣ではそうはいかない。
そのようなカチコミをする人たちを、中国では斧の男(ハッチャットマン)と呼ぶのはこのためでしょう。
私たちの門にも両手にそれぞれ持つという双斧と言う物がありますが、まさにそのための技術であるとさえいえると思います。
中国武術で言う「斧」の概念は広く、手斧や鉞だけでなく、棍棒などもこのカテゴリーに含まれるそうです。
先日ウクライナ関連の記事で紹介した狼牙棒もここに入るそうです。
やはり、侵入と破壊、攻撃の用途を兼ねている。
そういうことの訓練をしていますのでね、格闘技としての徒手の戦いを問うのはほとんど的外れなことだと言っても良いと思います。
そういうことに関心があるのなら、中国武術ではなくて、正々堂々総合格闘技をやればよろしい。
もちろん、中国武術の徒手としての可能性を探るために参考として格闘技を経験するということは私自身は得るところがあるとは思っています。
私自身もその経由で入ってきました。
ただ、過去の経験に執着するのではなくて、やはりどこかで割り切って、中国武術は中国武術、格闘技は格闘技と切り分けないといけません。
逆に言うなら、兵器の練功をするまでに至っていないと中国武術の理解はまだ始まっていないと言えます。
このことは、戚継光将軍の古典を読めば明記されていますね。
日本ではまだまだこのことが理解されていません。
やっていない門外漢がそうだというのは当然なのですが、問題はかじっている連中でさえ理解していないということですね。
それだけ、秘伝的な世界だということなので、これもまた当たり前なのかもしれませんが。
中国武術は、兵器をやって一人前。
私も新しく老師から教わっている門派に関してはまだまだこれから本番が始まる前の準備段階です。
生涯を掛けて学んでゆきましょう。