今日もちょっと現代科学との話になります。
最近知ったのですが、脳の中の小脳という部分は、無意識の運動を司っているそうなのですね。
これはつまり、中国的な身体哲学で言う処の「元神」の領域にあたります。
本能などの「エゴ」の部分とは別の、ある種没個性な、生物としての反応になります。
これを書き換えて使えるようにすることが、中国武術の練功になります。
この、人間ではなくて生物としての本能に戻ると言うことを、元神に還るということで、還元と言います。
これを脳の構造で説明いたしますと、人間は動物から進化した時に、脳が大きく進化しました。
この大脳皮質と言われる部分が、俗に「人の脳」と言われる部分です。
ここが司るのが、まずは二足歩行。
そして、手指の運動です。
つまり、大脳の発達と、手足の分化と言うのは一つの現象だと言える訳です。
四つ足のコントロールを司るのは、大脳周縁系と呼ばれるところにあるそうで、人間でもハイハイをしている赤ん坊の時にはここの部分を使っているのだそうです。
それがカンブリア大爆発的な赤ん坊の細胞増殖によって急激に進化を促されて、すぐに二足歩行を始めるようになります。
これがつまり、手足の分化ということなので、ここから言語を獲得したり、自我を持ったりと言う大脳的な発達が存在の中で重視をしてゆくことになります。
器用不器用とか、足が速いとか、性格とか物覚えとか、人間としての個性、エゴの部分はみんなこの大脳の中にある物ですね。
で、ですね。
アジアの身体哲学と言うのはそのエゴを封じることを目的としている訳です。
私たち武術家は抱拳礼という物をし、また片手では半掌と言うことをして挨拶としている訳ですが、これらの一つの解釈として、左手の親指を曲げるのは「自我を抑制する」という意味があると教わりました。
このように、仏教とその行である中国武術では自我こそが苦しみの元であるという考えをしているため、己のエゴを抑えたり、それを切り離したりすることを目的とします。
どれだけ運動だけ出来ても、エゴに囚われていては「君はまだまだ出来ないねえ」と未熟者扱いしかされません。
しかし、上に書いたように手と足を分化した人間ならではの運動能力を開発して高めようとするなら、これは大脳の発達をさせざるを得ないのです。構造上。
ここで先ほどご説明した「還元」思想の登場です。
人間としての動きを追求するのではなくて、動物の段階の動きを追求すれば、本能的動作が使えるしエゴも消えるしで一挙両得。
皆さんも、不意に転んだ時に無意識に受け身を取って、一体どうやったのか自分でもわからないというような覚えがあるのではないでしょうか。
これが本能的動きと無我の一体状態です。
ね、納得いただけたのではないでしょうか。
この、無意識の状態、動物の状態の動きを司るのが、脳の線条体基底核と言う部分です。
その部分が、脳幹という場所から小脳、脊椎にといきわたっています。
脊椎の中の神経と言うのは純粋に運動神経や感覚神経であって、これらに損傷を負っても直接人間性に影響が出る訳ではありませんね。
これが大脳とその他の脳の関連性です。
この線条体基底核という部分は、古皮質とも言われており、通称生存脳、またはワニの脳とも言われています。
そういう、原始的な脳なのですね。だから本能の部分です。
中国武術では人間の脳を避けてこの部分で動くと先に書きました。
しかし、それでは左右の手を使い分けたり、手足を分けて使ったりするのに勝手が悪い。
そこで、技術体系全般に渡ってそれらを使い分けしないシステムが用いられています。
以前から書いてきた、中国武術には体内で各門派独自のピタゴラスイッチがあって、素直に(人間が思うように)骨格を使っていないというのはこれのことです。
これらの中で有名なのは、少林の外三合と呼ばれる仕組みでしょう。
これは、手と足、肘と膝、肩と胯(上肢帯と下肢帯)をそれぞれ一対として使う、ということです。
そうするとどうなるか。
つまりは、四足動物と同じシステムになります。
もちろん、左右の手も使い分けません。
あれは手ではなくて前足です。
皆さんも、中国武術独特の両手同時パンチや掌打を見て疑問に感じたことはないでしょうか? 明らかに左右の手をバラバラに使った方が勝手がよい。
しかしそれは人間としての発想。そんな複雑なことをしたら大脳が活用されてしまう。
動物は前足は前足、後ろ足は後ろ足でセットで使
私がいま老師から鋭意教わっている通背(通臂)拳では、その名の通り、両方の臂(手)を背中の中を通して繋げるようにします。
これは通臂猿猴と言って、猿の身体のシステムを参考にした物だと言うのが定説です。
うのです。
さらには上に書いたように、上肢と下肢もそれぞれ対になって連動しています。
この運動システムを身体に叩き込むことで大脳は使わなくなります。
これで本能的な速度と反応、更には力強さが獲得されてゆきます。
しかし、そんな本能の部分でどうやって技やルーティンを覚えて学習してゆくんだ、という話が出てくることでしょう。
そのためにまた、脳の構造を活用します。
例えば何かの套路(ルーティン)を覚えたければ、それをゆっくり行うのです。
これを慢練と言います。
ゆっくり動くと言うと太極拳を連想する人が多いかもしれませんが、あれは元々少林拳に伝わっていた物です。ほとんどの中国武術門派では普通にゆっくり練習をするんですね。
ただ、その割合が非常に多いと言うのが太極拳の特徴だ、と言うだけで。
私も公園で少林拳を練習していた時に、離れたところから「あれ何してるの?」という子供の声を聴いたことがありましたが、それに続いて目の前を歩くギャルママから「太極拳!」という答えが出るのを目撃しました。
他にも多くの中国武術家から、太極拳と間違えられた、という話を聴いています。
もし迅速で手足をバラバラに人間らしく動かしていたら、キックボクシングや空手などの格闘技に間違えられたかもしれません。
これは慢練と上述の非人間的運動の与える印象の為なのではないでしょうか。
こうして、我々は脳の無意識の部分に門派ごとの動きを叩きこんで、本能にその武術を刷り込んでゆくのですね。
少林拳の、動作における根本とは何か。というと、易筋と洗髄だと言います。
易筋とは全身の筋肉や筋の繋がりを作り換えることです。
洗髄とは神経系を洗い直すという意味です。
一体どのように?
それが今回書いたことです。
こうして、肥大しすぎるエゴを抑制し、動物に還ってゆくことで、自然の存在としての生き方を取り戻してゆく。
それが天地と繋がると言う目的の方法論となっています。
ただ、この方法をとっても地力が付いてくるほどに自我がむき出しになってくるタイプの人が居る。
あるいは、まったく自我、自己が洗練されない人が居る。
このトカゲの脳の領域は生存本能の領域なので、残酷で利己的な部分の機能もある場所です。
自我を切り離せないまま、この部分と併用してゆくと、それこそ爬虫類的な利己的で残酷な人間へとなっていき、自我はどんどん歪んで精神の病になってしまいます。
これを偏差と言います。
こうなってしまって、人格が破綻して人生を破壊した人間も沢山いると聴きました。
蔡李佛の師父は、それを避けるために最初から気功を教えてくれて、瞑想で土台を作ることで自我が歪まないようにしてくれました。
その結果、私はとても良い人生を送れるようになりました。
いま、こうして師父として人に伝える活動をしているのは、その良い部分を人にも伝えたいからです。
逆に、実力がついてきても自我に良い影響が出ない人には、その段階で教えるのをストップするようにしています。
そういう人にはもう、それ以上の内容に進むことは出来ない。
無理に進んでも、間違った方向に進んで行ってしまって、狂った人格の持ち主として病んだ人生を送ることになってしまう。
そういった経験を繰り返したため、いまでは下積み期間を設けて、人を見て教授をするようにしています。
残念なことに、失格となる人は非常に多い。
現代人はすでにして、いくぶんづつ心が病んでいたり、脳の機能が間違った方向に偏ってしまっていることが多いようです。
それらを自分で克服できる心の持ち主だけが、この面の内容の深みに踏み込むことが出来るのかもしれません。