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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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メタ認知が出来ないということ

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 前の記事に書いた「メタ認知」ということを自覚して調べていた時に、これがいまはビジネス・パーソンの能力としてみなされているということを目にしました。

 まぁ、いつものプレジデント的でっちあげで、物を考える力を持ち合わせない社畜を脅かして小銭を揺すり取る手口の洗脳詐欺だろうと思ってその趣旨自体にはそれ以上の関心を持っていないのですが、その文章には気づかされることがありました。

 というのも、いま私が「物を考える力を持ち合わせない社畜」と書いた通りに、世の中にはこのメタ認知が「出来ない」人が居るということをその文で知ったのですね。

 そうか。と思わされました。

 人間、自分以外の人間の認識を体験することは出来ないので、それは私には知りえない人生の情報でした。

 ことさらに「メタ認知が出来る、出来ない」なんて叙述があるように、これは誰しもが可能なことではないということであったようなのですね。

 私は自分が常に当たり前にメタ認知的な物の考え方をしてきたので、子供の頃からそれをしていない人と言うのが不思議でした。

 祖母が認知症になり、当たり前のことがどんどん分からなくなってきたときに、それが本当に物が分からないのか、それとも分かっているけど人格面に問題が出てきているから敢えて駄々をこねているのかがわかりませんでした。

 正直、いまでもわかりませんが、認知症と言う言葉の通りに本当にメタ認知が出来なくなっていたのかもしれないといまになって思います。

 このような個々人間の認識のギャップがあるため、同じことは沢山のシチュエーションで意識してきました。

 相手が本当に認知能力が低いのか、悪意でバカなことを言っているのかの区別は難しい。

 更には、世の中の三十人に一人は発達障害がある、という事実もあります。

 私がそうかもしれないように、他の誰がそうであってもおかしくない。極めて当たり前のことだとここで発信し続けてきています。

 そのように、当たり前に認知と言うのは個々人で違う物です。

 ということ自体がもうメタ認知なので、ここで書いてあることが全く理解できないと言う人はたくさんいるということなのでしょう。

 私の両親などはひどい物でしたので、より身近にそういった共通言語の不可能性を感じ続けてきたことも、私のメタ認知認識を育んだのかもしれません。

 私がまだ十代の前半かせいぜい半ばくらいの頃、日曜日に何の予定もなく、とりあえず表に出て足任せに散歩でもしようかとしたことがありました。

 すると玄関先で父親が「どこへ行くんだ」と訊いてきました。

 私は思っていた通りに「決めてない」と答えると「お前は秘密主義でそうやっていつも隠し事をする」などと言い出します。

 実際には私はまったくそんなこともないし、仮にそうだったとしても一人の人間の人権として誰にもオープンソースをシャアし続けねばならないなどという義務もないのですが、決して彼にはそういうことは理解が出来ないのですね。

「別に何も考えてないよ。出てから考えようと思ってる」と言うと「俺なんか行く先を考えないと一歩も先に進めないけどね!」などと強い口調で言いました。

 これが私が、兼ねてからそうかもしれないと思っていた、自分の父親は発達障害かもしれないという疑念に核心を得たエピソードです。

 子供なんてのは、なんも考えずに適当に表に走り出て行って、その時に見えた景色だとか日差しの角度だとか風向きとか坂の傾斜とか任せに適当に転がり込んで行っては、行ったこともない場所を発見したりしていた物です。

 なにせまだ世の中のことを知らないのだから、出たとこ任せでぶち当たって知覚してゆく他には経験してゆく手段がない。

 インターネットも無い時代なのだからいまのように先に調べてから出ていくと言う風習も無い。

 そういうことが自分にはないのだとしても、他者にはあるのかもしれない、というメタ認知が彼には不可能なのだということが、この会話での宣言で判明した次第です。

 こういう人達は、世の中にあふれています。

 だから彼らは自分たちが人間が本来持ち得ている能力を獲得し得ていないという自覚をしづらいのでしょう。

 また、自覚というのはメタ認知そのものなので、これはもうてんから持それをち合わせていない人間には理解しようはずがない。

 魚に肺呼吸をせよというような物です。

 クラスメイトや少年野球のチームメイト、学校の教師や飲み屋で隣り合わせた男、会社の上司や現場の同僚など、あらゆるところにそのような人々が当たり前に居ます。

 おそらくはいまにいたって「メタ認知が出来るか出来ないかがビジネス・パーソンの能力として問われている」などと言う話になっているのは、やはり今回のパラダイム・シフトによって人間の分断が起きているからなのでしょう。

 それまでは、能力が不自由な人に合わせて団子になってみんなでやっていく、というのが和の精神だという風潮がこの社会を占めていました。

 これは明らかに、政治的な意図による先導の結果でしょう。

 権威主義国家の体制において、メタ認知なんて物を国民が得てしまって、なぜ自分たちがそのように物事を感じるのか、なんてことが分かるようになってしまっては、民衆を先導する立場の人達は大弱りをすることになります。

 いつも書いている愚民化政策というのはそういうことですね。

 しかし、そうして低いところ低いところに落ちて行った結果、いい加減見えている人たちがもう付き合いきれなくなったというのがいまの現状でしょう。

 何せ転がり落ちてゆく認識能力の低い人達は、反知性主義を恥じることなく、ポピュリズムで目に付くすべてを食い荒らし、陰謀論に浸って悦に行っています。

 それに付き合って全滅することは意味がない。

 学んでゆこう、向上しようとして能力が足らずに落ちこぼれてゆくのは仕方がない。

 しかし、脳の力の低さを開き直ってバカの世界を作ろうと活動してゆくのは話が違います。

 それは歪んだ弱者権力でしかない。

 弱ければ弱いほど優位だと言う社会になったら、それはもう発展が起きえない社会だと言うことになりましょう。

 若いころから現在に掛けて、公私に渡ってメタ認知能力を持ち合わせていない人々とすれ違ってきました。

 私が、自分がなぜそのような行動をとったのかを自己分析して後にフィードバックをしようとしていた時に、ある種の人々は「言い訳をしている」とそれを捉えていたようです。

 いったい誰に、なんのために? 私には自分の行動を誰かに言い訳する必要など全くない状況においてのお話です。

 しかし、低い能力の人達と言うのはそのように捉えることになるのですね。

 これは能力の低さがそのまま、精神の低さに繋がるロジックであるように思います。

 地元のFMなどを聴いていても、そのようなDJのトークに接することがあります。

 そのたびに「この人、発達障害なんだろうなあ」と思ってまいりました。

 脳学者の先生が「バカの壁」という言葉を作ったことがありましたが、それはつまり、学者であろうと発達障碍者であろうと、誰にでもその脳の機能には限界があり、それをして壁と表現した物です。

 私にも私のバカの壁が沢山そびえたっています。

 人から量子力学の話など聞いてもまったく意味が分からない。

 その一方で、たまたま元からメタ認知はする習性がありました。

 他の人の中には、別の形のバカの壁があって、メタ認知などは不可能だ、ということなのでしょう。

 この分断が理解できない結果、自ら下層に転がり続けるしかない人達というのは、非常に不幸であるように思います。

 えてして、彼らは何に着け、他人は悪意を抱いて陰謀を企てているので、自分はそのせいで被害を被っていると常時感じ続けているせいか、大抵機嫌が悪くて情緒が不安定です。

 つまらなそうな人生だなあ。

 私にとっては現実の世界は非常に面白い物なので、認識能力は高いほどに面白いように感じています。

 だから人生のリソースをどんどこ学問につぎ込んで生きているのですが。


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