最近、メタ認知という言葉にフックしました。
これまでも時々、サブカルチャーや現代思想の本で目にしてきた言葉なのですが、あまりそこにフォーカスしたことがありませんでした。
しかし、ハタと思いついてちょっと調べたところ、これは私のやっていることの真ん中を捉えた言葉なのだなあと思うに至りました。
これに気付いたきっかけは、先日、友人のドクターに相談を持ち掛けられてそのことについてお話をしていたところ、私のタオの視点からのお話をして状況を解析してゆくこととなり、それが終わって結論が出たくらいの頃合のことで、向こうが「あなたは宗教を持っている人間ですね」と言ったことです。
私はタオや禅の思想の具体としての伝統文化の継承者としての師父であるので、やることは在野の和尚のような物なのですが、中核としての宗教は持っていません。
タオのスタートにあるように「天地に仁(仁とは人格のこと。つまり、天地に人格を持った存在₌神などいないという意味)なし」であり、禅にある「鬼に在っては鬼を斬り、仏に会っては仏を斬る(自分の行による人格と見識がすべてだ)」の思想で生きているために、宗教にはどうしても至りえない。
そう伝えたところ、宗教を持っている、というのは言葉足らずだったようで、真意としては自分の意思とは別の上位の見解を持っている、という意図だったということがわかりました。
その時は「あぁ、超自我のことだね」とお話をしたのですが、この自分自身と言う自我を相対化する超自我(スーパー・エゴ)を持つというのは、つまりタオの陰陽思想であり、行をするというのは常にこの表層の自己以上の何かがあり、そこに自分が至ると思っているからということになります。
そして後で気づいたのですが、そうやって上位自我を想定して自分の自我を相対化するというこの視点が、つまりはメタ認知ということですね。
あぁ、そうか、私はメタ認知をしていたのだな、とこれで気が付いた次第です。
調べてみれば、このメタ認知というのはつまり「自分はなぜそう認知するのかを分析する」ということだと要約して良いようです。
普段私が書いていることは、つまりは「自分の一時の感想に全体重のっけて感情的になれるヤツはバカ」ということなので、まさにこの、直接の認知に対して常に「ん? 自分はなぜそう思うのだ?」と表層の自我に対して距離を取る習慣がある、ということになります。
メタ認知をしている、などというといかにも賢しらげですが、要は常にぼんやりとしていたり逡巡を伴っていると言ってもいいかもしれません。
要はただの習慣だと言っても良いのではないでしょうか。
人間は天地と繋がっていて自然現象や季節などから影響を受けて認識が作られている、というのがタオの考え方です。
簡単に言うなら、眼鏡をかけている私が、雨の日にはレンズが濡れて見えている景色が滲むし、寒い日にはレンズが曇って景色が見えづらくなる、と言うことです。
この場合のレンズがエゴ、自我ですね。
メタ認知をしていないというのは、レンズが曇ったときに「あぁ、世界が消えて行っている! 大変だ! 悪魔主義者の仕業だ! 急いでネットで人種差別の陰謀論を書かなきゃ!」となるということです。
いやいや、世界が消えて行っているのではない、眼鏡が気候の影響で曇ってるだけだから拭けば元に戻るよ、というお話です。
私が師父の仕事して人の話を聴いてコメントを述べるというのは、そういう解析をしている訳です。
景色が曇る→世界が消える→世界が悪い→悪者を叩かなければ! という外への、見えていない物、得てして存在していない物へのベクトルで神経系のエネルギーを消費するのではなくて、景色が見えないというのはそう認知している自分の方に問題が発生しているのではないかと点検、整備の方向に出るというお話です。
これ、禅による内省や気功での外とのつながりの認識習慣と直結した物ですね。
それらや中国武術の目的は、すなわち識を高めるということだと何度も書いてきました。
識とは認識のことです。これ、認知と言い換えても成立しますよね。少なくとも大要は。
またこれらの主観は、自分を振り返るという習慣に直結します。
となると、問題を感じた時に、上に書いたように点検、整備して実際的なトラブル対処が可能ですので、現実的に生き方に対して効率的です。
そして、生きやすければより人生は快適です。
もし、存在していない悪魔主義者を見えても居ないのに想定して慌てて他人を攻撃することに精を出したとしても、事態ってまったく改善されないですよね。
何一つ生きやすくならないし無駄な労力を支払うばかりだし、あげくには現実世界に繋がっていない人間として一生を費やすことになります。
おそらくは、現代人のそのような傾向に対して利便性が高いので、メタ認知と言う言葉がいま、実社会で取り上げられるようになってきているのでしょう。
つまり、否メタ認知的な人間がますます取り残されて行って社会から分断されてゆく流れにある、ということです。
私がいつもここで書いてきていることはみんな「メタ認知のお話」でひとくくりに出来るかもしれません。
現代日本人は白人至上主義、キリスト教に始まる文明に洗脳されて暮らしている、と繰り返しているのはそういうことです。
私たちがなぜいまの「常識」を持つのかと言うと、それは現代日本という局所の価値観を刷り込まれているからですね。
しかし当然それは普遍的な物ではない。
なので、その「常識」を、なぜそう感じるのか、という分析が必要なのです。
メタ認知ですね。
そうやって自分の感受性を分析することが、仏教でいう「自覚」、自ら覚る、ということでしょう。
自分は日常に洗脳されているのだ、という自覚から本当の現実の世界とのつながりが始まります。
そこから先は、では何をして自分に影響をさせるかと言う選択が可能となります。
そうすると、知らない間に何かに影響を受けて物を思わされている、という状態から抜け出すことが見えてきます。
そうやって生きられると、命は自由になれますよね。
それを私たちは目標として行を行っており、その価値観をこうして発信している訳です。
それぞれが自分を正しく認知して、自由に生きて幸せになれた方がいいじゃないですか。