武術家が、師から与えられる一番大切な物は、一体何だと自分は考えているだろう。とちょっと省みてみました。
これはもう、ある意味で一般の社会とはまったく別の世界に棲んでいる時代遅れの人間の偏屈な見方だと思っていただきたいのですが、私などはよく、色々な人体の動作をみて「立ててない」「歩けてない」などと口やかましい感想を持ちがちです。
映画を良く観に行くのですが、あまりに役者さんたちの立ち振る舞いが汚いと「辞めてくれー! 観ててへたくそがうつる!」と思うようなときもあります。
もちろんこんなのは一方的な偏った見解であるというのは自覚はしています。
そして時に「あの人は大切なことを習ってないんだな」と思うようなこともあります。
しかし、ただ立つこと、歩くことが本当に一番大切なことだと自分が思っているのかと自問自答すると、そうではないようです。
では、私が思っている一番大切なことは?
それはどうも、礼らしいのです。
だとすると、どうやら私は儒家の影響が根強いのか。
しかし、武術の伝人として自分を省みたとき、やはりそこは否めない気がします。
それは単に内面的な物ではなく、外形だとしてもです。
よく学生さんに「教えてる動作とやってる動作が違う」と言われますが、そのような細部に師父であることは顕出します。
始めたばかりの学生と、一年経った学生、三年経った学生、師父だと、その形が微妙にことなります。
単純に上手い下手ではなく、身体を通った兵器の使い方や伝が反映するので形式そのものが微妙に変わります。
同じ移動の足遣いでも、得意兵器が棍であるのか刀であるのかによって距離感が変わったりします。
動作の連環や姿勢の作りにも出ます。
微妙な用勁でも変わります。
そこに伝系が反映する場合もあるでしょう。
師父と掌門でも変わります。
そのような中で、礼式というのも同様となります。
動作の中に、自分がどの段階のどの立場にいるのかが織り込まれています。
その意味を考えると、例えば諸学の内は動きを大きく露骨に行いますが、長ずるにつれてそれをかくしてゆく場合もあります。
それと同時に、例えばよその人には失礼の無いように武術は見せるなとか、序列が発生してくるにつれてそれを重んじて交際をするようにとか、上位の人に挑まれるようなことがあっても三手は譲りなさいとか、そのようなことを知ってゆきます。
それこそが、私は一番大切なことのように感じている部分があります。
つまりそこが、伝統文化の内側の人間として認められているということのように感じるからです。
外から習いに来ているお客さんであるなら、ただ通り一遍の練習をさせておいてそのようなことには口を挟んでこないでしょう。
自分の一部、時に自分の代行者であり、使いであるからこそ、自分がそうしているように、他門の方に対して恥ずかしくない立ち居振る舞いをしつけるわけです。
技や力はあっても、礼を知らないという人母見ると、師から一番大切なことを教わらなかったんだなあと思うと同時に、身内とみなされていない人なんだなあと思わざるを得ません。
もっとも現代人には、そのような師弟の在り方は重すぎ、濃すぎる物であるため、技術だけもらえればそれで充分なのだとは思います。
ただその場合、たった一人で何も教えられていないまま武林をさまよわなければならず、なんの手助けももらえなければどこの誰でもないという見方しかされないままです。
そのままで、歴史や伝統の深部や上層に近づけるかと言うと、大変に難しいことなのではないかと思います。
アメリカの空手の試合を見ると、迷彩模様や星条旗柄の道着をまとって金色の帯を締めたような選手を見ることがあります。
師から大切なことを習っていないというのは、そのようなことのように思えます。
だとすると、それは師ではないのかもしれない。
師はおらず、ただ教室に通ってる生徒さん。
伝統武術を学びながら、その伝統の一部になれないと言うのは、さみしいことのように思います。
自由と言うのはどのような物なのか。その部分を考えさせられます。
私は少なくとも、そのような古典的な思想に規定された中にあってから、本当に自由になれてきたように感じています。
誰にも何も言われないまま好き勝手にしているのは、本当はただ自分のエゴで自分をどんどん不自由に追い込んでいるだけなのかもしれない。
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一番大切な物
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