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神話学から鬼滅の刃に観る家庭のお話 1

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 前回、同級生から借りた鬼滅の刃について心理学的側面から書きました。

 その後また少し読み進めて、いまは十巻まで来ました。これってだいたい全体の半分くらい? なのかな?

 相変わらずとても面白いです。

 私が自分の学問の一環としている神話学というのは、要は心理学の一派です。

 神話と言うのが現実であるというような解釈はせずに、あくまで人間の心理が潜在的(ア・プリオリ)に持っている価値観の繁栄だとして読み解く立場の学問です。

 私は近代化以降、特に戦後日本というのは白人優位主義の資本主義によって日本人の思考が一気に洗脳されてしまった時代にあると繰り返し書いてきていますが、キャンベル教授の仕事によるとこれはもう、やはりキリスト教の普及遺稿世界中に広がったことであるとされています。

 キリスト教のような「宗教」というのは神話とは違って、極めて政治的な物です。

 後天的に、社会を形成するのに都合のいい価値観をかなり強引な形で創り出して国教として敷いてきました。

 このあたりは植民地時代以降を見れば明確なのですが、それ以前のごく初期の状態からこのようであったそうなのです。

 つまり、ア・プリオリ(先天的)な価値観ではなくてア・ポステリオリ(後発的)な物であるということです。

 これはつまり、機能主義や全体主義の萌芽だということも出来るでしょう。

 キリスト教的な社会優先の考え以前の神話という物は、心理学的に普遍の価値観がある、ということです。

 鬼滅の刃はまさにそこを直撃した物語となっています。

 前の記事で、主人公の炭治郎少年と彼の仲間の副英雄たちである善逸少年、伊之助少年を比較して、なぜ炭治郎少年が作中において倫理的に圧倒的優位に立っているのかについて書きました。

 そしてそれは、家庭内という安定を価値基準にしており、外界からの衝動が人格に影響を及ぼす以前の子供の段階の安定だということも書きました。

 善逸少年や伊之助少年は外部からの抑圧に駆られて操られてしまっている存在です。

 外界からの抑圧→危機感・不安感→衝動→行動という図式は、これ、本来自分の内面に存在していなかったはずのものを行動動機にしてしまっているからですね。

 本当に自分が欲しい物に向かって動いている、という核心がそこには欠けているのです。

 ものすごく成功をおさめているアーティストやハリウッド・スターが突然自死をしてしまうことがありますが、それらはやはりこの構図がどこかにあるからなのではないでしょうか。

 もちろん私はそれらを否定しません。それは本人の選択です。実存主義の立場から、それらを否定することは出来ない。

 チェスター・ベニントンのことは忘れませんし、彼への敬意は決して薄れません。

 話が脱線したようですが、実はそうでもないのです。

 順を追ってお話しましょう。

 炭治郎少年は、家族と言う小宇宙において完成された、安定した人格を獲得しました。

 これは極めて重要なお話の中心地のようになっていて、彼等に敵対する鬼という人たちは、みんな機能不全家族出身者なのですね。

 各人のモチベーションが家庭の不和になっている。

 その想いを中核に、鬼の親玉に鬼の血を与えられて不老不死になったのが鬼なのですけれども、彼らはそうして半永久的に長い生を送っているにも関わらず、まったく精神的成長が出来ないんですね。

 にも関わらず、鬼の親玉が彼等に下している使命と言うのは「成長しろ」ということなんです。

 その成長と言うのは、人を沢山食べて物質的、即物的に強くなれ、ということです。

 つまりは、機能主義なんです。

 結果、彼らは人生から何の成長も得ることが出来ずに、いつまでも同じところに居て、最終的には正しい心を持った炭治郎少年たちに退治されてしまいます。

 この時に炭治郎少年は、他の仲間たちとは違って鬼をあくまでも「育ちそこなった可哀そうな人間」として接するんですね。

 前の記事にも書きましたが、これは極めて自覚的なことだと言えるでしょう。

 明らかに、現代の社会と少年マンガの関係性を批判しているように見える。

 他のマンガだったら主人公であったように見える、炭治郎のお友達の善逸少年、伊之助少年が、果てしなく愚かに描かれていたり、哀れな存在として接遇されているのはそのためでしょう。

 これはもっと言うなら、彼らがそのままの路線で機能主義的に「成長」していったら最終的には鬼と変わらなくなる、ということだとも言えるでしょう。

 実際に、彼らの上位に居る鬼殺隊のメンバーと言うのは、みな登場時に不穏な存在、信頼の出来ない、不吉さを思わせる存在として描かれています。

 しかし、彼等には変化するチャンスがあるのですね。

 それは、鬼ほど強くも不死身でもないということです。

 よって彼らはみな、苦汁をなめたり敗北をしたりすることで反省し、成長をすることが可能となっています。

 それらは表層的な物質や名声の獲得を成功と見なす現代社会では忌避されがちなことですが、実は人格形成においては福音でもあるのです。

                                      

                                               つづく


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