私は平素から、自分は功利主義者だと認識していることを公言しています。
功利主義というのは、より多くの人の幸福を追求する、という立場のことを言います。
これを「最大限最大多数の幸福」原則などと言います。
この主義を説明する例え話でよく引き合いに出されるのが、火事場のお話です。
目の前の建物で火事が起きて、逃げ遅れた人を一人しか助け出せない場合、誰を選ぶか、という問題が生じます。
この時に、一人はローマ法王、あるいは世界的な脳外科医が居る、とよくこの例え話では引き合いに出されます。
もう一人の選択肢に、自分の母親が居たとします。
この時に、生きていれば沢山の人を救済し続ける法王や脳外科医を救うというのが功利主義の立場です。
表層で起きている事象の背景を常に想定します。
それに対して、自分の母親を助けるというのは単に自分の個人的な感情の物、あるいは衝動でしかありません。
すなわち、表面の自分のことしか意識していない。
しかも、このときに母親が立派な人だった場合、後から判断を叱られたり、偉人を犠牲に自分が助かったことを彼女が負担にしてしまう可能性さえあります。
当然、火事場での救助などと言うのはとっさの出来事ですので(私もやったことがあります)、こういった判断は平素から主義として自分の中に存在していないと行動に移せないことでしょう。
そこで哲学の世界では、このようなモラルのジレンマを回避するためには、「唯一の倫理原理」をあらかじめ各人が抱いていないとならない、ということになります。
平素からなんも考えずにノーガードでただ生きているだけでは、現実の有事に役に立たない。
それでは行をして自覚を意識して生きている人間と言うのは少し難しい。
私が折につけ自分は功利主義者だと言っているのもそのためです。備えよ常に、の言葉に従っています。
このようなモラル・ジレンマの概念において、功利主義と対立する思想として挙げられるのが、規範主義という物です。
規範主義について私が知ったのはつい最近です。
これは言葉から想像されがたい概念で、一言で言うなら「自分の行動を、自分だけでなく社会の全員がしたらどうなるだろうかを常に考えて行動する」という物だというのです。
これ、これまで誰にも言ったことが無いと思うのですが、小学生の頃から癖でいつも考えていたことです。
もしかしたら学校の先生に言われたのかもしれないし、読んでいた本から入って来た考えかもしれません。
由来は不明ですが、私は常にこれを考えています。
自分一人くらいはいいだろう、ではなくてみんなが同じことをした場合にはどのような利益が出てどのような不利益が出るかの因果の計算を常にする。
確かにこれは極めて広範的な「規範」だと言えましょう。
倫理の基礎をなす物だと言ってもいいし、公共性そのものの根源だと言っても差し支えないのではないでしょうか。
この考えを提唱したのは純粋理性批判と「これでよし」の金言で有名なカントだそうですが、これをすなわち「エゴイズムの否定」と呼ぶそうです。
おぉ、それはまさに、行における自我からの離脱と重なる概念ではないですか。
これを前提として各人が互いに尊重しつつ社会生活を送ることで、すべての行為は各人の責任において行われることになる、とカントは言います。
常に自分で判断。自分で責任を持つ。
これは神話学でも言われることなのですが、人格が出来ている人間がこうした自責によって世界を生きているのに対して、出来ていない人間は他責で生きている。
自分が間違ったことをしても言っても、常に責めるのは他人。
己の過ちを引き受けて改訂しないので、成長するということが困難になります。
カントはそのような状態を、精神の未熟と言っているそうです。
未熟な精神は選択でも行動でも他人の意見に頼る。
この国の社会を見回せば、周りにはいい歳をして「これってこうだよな?」とか「あれってそうよねぇ」などと言って他人にへばりついて群体生物として生きることで個々人の人生の置ける不安や責任を回避しようという人たちが溢れています。
そうやって同質社会(ホモソーシャル)を作り、それが権威主義に繋がってゆきます。
かつて聖徳太子が制定し、秀吉が戦国時代を終わらせるために施行した「五人組」などの相互監視、依存社会制度が根強く残っています。
このシステムは戦後、町内会という形になっていまでもこの国のシステムとして残っています。
このように、すべてを自分で判断することの出来ない未熟な人格の人々を大量に生産して権力の強化を指向する、というのは、まさに権威主義社会における愚民化政策の中核にある物だと言って良いのではないでしょうか。
そのような未熟な精神が、やがて周囲の人々の意見や寄り添いから自立する時に、初めて人は自由になって成熟を観た、とするのがカント式の規範主義の考えだというのです。
だとしたら、私は功利主義者でありながら、明らかに規範主義者でもあります。
これは、一つの思想を常に備えておけという上にあげた基準に明らかに反することになります。
困りますね。
また規範主義には大きな独特のルールがあります。
それは「自己犠牲を認めない」ということです。
「他人がみんな自分と同じことをしたならどうなるだろう」ということを考えるのが規範主義なので、そのルールから自分を逸脱させるということが本質的に違反となるのです。
これは困りました。
自己を捨て、我を捧げるというのは行者の生き方の中心に通底する部分です。
それはもちろん、喜びをもって自分が好きでやっている、ということなのですが、だとしても、恐らくはカント先生のお目こぼしはないかもしれません。
なにせ好きでやっていることですので、自分勝手な私情だからです。
だとしたら、やはり私は功利主義者であるということになるのでしょうか。
だとしても、規範主義には大いに賛同し、敬意を表するところです。
問題なのは、どちらでもない「未熟な自我」の人たちが世の中の中核をしめていることでしょう。