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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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中国武術の中の無為

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 老荘思想においては、無為と言うことが重視されます。

 これは、結果や成果を求めず、やるだけのことをやるだけやったらあとはそれらが成るように任せる、ということだと言われます。

 やるだけとは一体どの辺りなのか、というのが非常にあいまいではあるまいか、という感じがします。

 これ、我々現代人からするとおそらくはだいぶ少ないと私は現在の段階では見ています。

 現代人のように、食事を削って睡眠を減らして努力をする、というのはたぶん違う。

 目の前の自分のやりたいことよりも、全体の大きな陰陽の調和を重視して、その範囲の中で行うというのが無為であるように思っています。

 カンフーに関していうならば、疲れ切ってしまうほどやってはいけない。

 朝から晩まで一途に取り組むようなことはやりすぎでしょう。

 私には以前、六年か七年ほど、中国武術で失敗していた時期があります。

 毎日最低でも六時間は練習をしていたのですが、一向に成果が出ませんでした。

 これは解釈が間違っていたのもあるのですが、明らかに取り組み方が間違っていたのではないかと今は思っています。

 目先の拳足の動作に捉われるのではなく、まず中国思想的に正しい生き方をして、それによって養われた陰陽の調和の上で武術に取り組む、というのがおそらくは正しい。

 間違った取り組み方をしていた年月の後、師父に拾っていただいたのですが、まずは最初に偏差を防ぐための気功を教わりました。

 偏差とは陰陽のバランスが崩れて心身に不調をきたすことです。

 練習に一生懸命になるほど、人間は陽が勝ってバランスを崩し、存在そのものが狂ってゆきます。

 それを防ぐために、まずはまっすぐに立つこと、調和を取ることを学びます。

 その上で、転ばない、よろめかない範疇で練習をすることを学んで行く。

 これは武術に限ったことではありません。仕事も恋愛も日常生活もその範囲で行う習慣をつけてゆきます。

 もし、勝負に勝つことを目的としている格闘技であるならそれでは結果が出せないことでしょう。

 試合前にしっかりと自分を追い込んで調整をしてピークを設定して本番に挑まねばなりません。

 しかし、中国武術はそういうことではありません。

 むしろ、人間としての調和をとることの方が主体です。

 一言で簡単に言うとしたら「がんばらない」という生き方を身に着けるということでしょうか。

 果たしてそんなやり方で中国武術って体得できる物なのだろうかと疑問に感じる方もいらっしゃるでしょうが、だからこそ「正しい教え」を得ることが大切なのです。

 それに則って行えば、陰陽の中庸を保つ習慣、言い方を変えればその能力自体が中国武術の能力になります。

 これはつまり、天地の陰陽に調和する能力です。

 伝統的な表現をするなら、タオと共にある能力と言ってもよいでしょう。

 私のところでは常にその体得を目標とした練習をします。

 人と較べて勝ったり、出し抜くために騙したりするような、結果に囚われたことは練習しません。

 自分のうちなる陰陽の調和を取り続ける能力が高まれば、タオの力が発揮されます。

 先日の練習の時に、発勁で相手を飛ばすという練習をしていたのですが、この能力が開発されている人は飛ばしても飛ばされそうになっても自分が揺らぎません。

 あと一歩で飛ばされる、というところまで一見追い込まれても、受ける方が勝って入ればそこで飛ばそうとする方の力が尽きて、推されていた方は自然に元の状態に戻ります。

 もし相手に体重を浴びせて寄り掛かって、対人間でのバランスを取っていたなら、相手が尽きた時に今度は自分が前のめりによろめいてしまうことでしょう。

 しかし、外からはどのように見えていたとしても、自分自身はただまっすぐに天地の間を繋いで立っていれば、そこに干渉する相手の力が尽きてもやはりただまっすぐ立ち続けているだけということになります。

 これは、積極的に相手をどうこうしようとしない、有為なことをしようとしないという超然さの結果だと言っても良いでしょう。

 そしてまた推す方の力が尽きるというのも、推す方が出来ている人であるならば、これは自分がまっすぐ立っている調和のとれた範疇での推しであり、決してそこを崩しての物ではありません。

 もし、そこで相手が相手に勝りたいがあまり我欲の力を使おうとすれば、そのとたんに調和からくる力が途切れて推している方が逆に崩れてよろめかされてしまいます。

 こういった物が我々が行っている、中国武術の練功における無為の取り組み方の具体となっています。

 そしてこの能力が拡張されてくると、天地のみならず人、相手との調和も感じられてくるようです。

 推している相手と押されている自分が繋がり、一体となってゆく。

 両者一体となればもはや推す物も推される物もありません。

 二人一つとなってただ天地の間にまっすぐ立つのみです。

 この感覚が出来てくるならば、もはや相手を倒すということはあまり考える必要がなくなります。

 自分がその場にしゃがむようにして、相手をその場に座りこませることが可能となります。


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