前の記事で、陰陽の調和を取って天地に繋がる練功をしていると、時に他者との繋がりによって彼我一体となって結果それが技になるということを書きました。
今回はそこに繋がるお話です。
以前に師父から、他力という物について教わりました。
これは自力の逆ですね。自分の物ではない力であり、これを用いることを教わりました。
我々の武術と言うのは少林拳であり、禅の総本山においてその行として行われてきたものです。
禅と言えば自力を強調し「鬼に会っては鬼を斬り、仏に会っては仏を斬る」という厳つい宗派。
前の記事で書いたような他者に攻撃をされながら平静を保とうという行などまさにいかにも禅らしい。
その中で、今度は自力では無く他力を教わるというのはちょっと面白いところです。
一般的には仏教では、他力と言うのは自分の修行などは関係なくただ仏に祈祷をすれば救われる、あるいはすでに救われていることに気付くのだ、というような意味で用いられることがどうやら多いようです。
私がこれを教わったのは恐らくは自力を中心とした考えの中でその陰陽的存在としての他力としてだったのではないでしょうか。
自分が師父になったすぐの頃だったように記憶しています。
あくまで自力でやってきて、次の段階としてそういう物もある、ということで教わったように思います。
ためにこの他力、宗派としての深いところまでは教わるということではなかったように思います。
ただ、自分を保って天地陰陽の調和を保つために、外に働いている力にゆだねるのだ、というような意味で私は理解しました。もしかしたら師父はもっと違うことをおっしゃってたのかもしれませんが。
私の判断はつまり、いかにも中国仏教らしい、タオの思想に通じる物ですね。
自分の外に働いている天地の力、タオの働きを感じとり、その流れに身を置く、ということが私なりの他力の獲得となりました。
となるとつまり、これはその力を感じて主体とする能力そのものが自力だということになりますので、自他の境はなくなります。彼我一体、陰陽調和です。
これが身体操法とどう関係してくるのかというと、例えばウェイト・リフティングのような物を想像してください。
重いバーベルを持ち上げるのには、その重さとイコールの自分の筋力が必要になります。自力ですね。
ですので、100キロのウェイトを上げるなら100キロ分のその運動に必要な筋力が必要になります。
だからそのための筋肉をつける。これが自力ですね。一般的なスポーツ的能力と同じです。
しかし、この運動を他力で見るとどうでしょうか。
実は、100キロを持ち上げる自分の筋力以外の要素が働いています。
それは例えば、地面の高さから100キロを上空に持ち上げるための土台となる地面との調和であったりします。
この地面との一体化がないと、100キロの力の作用を得ることが出来ません。つまり、100キロの反作用が無いと出来ないということですね。
同じことはバーベルを掴んでいる二つの掌にも言えます。ここにも100キロの反作用が無いと持ち上げることは不可能です。
で、ですね。
現在の西洋スポーツの常識では、これを得るためにシューズとグローブを使っちゃうんですよ。
だとしたら、ぴったり100キロのウェイトを上げるのに必要な100キロの力を、本当に自力が持っていたと言えるでしょうか?
実際には、シューズとグローブの摩擦力を借りて行っているので、その分の力を100キロから引いた物が自分の力です。
地力は100キロ分持っていないのを持っていると誤解してしまっている。
どころか、体幹を支えるためにウェイトベルトさえ使ってしまっていれば、自分の身体を支える能力さえこの人は持っていないということになります。
道具の力に頼って寄り掛かって100キロを上げているのですね。
実際にノーギアで行ったとしたら、本当は何キロが上がることでしょうか。それが本当の実力です。
しかし、多くのトレーニーはその自分の実力を理解することはありません。
そんな危険行為は誰もしない。
で、そのギアの力に頼らない、自分の手と足と自分の立つ力によって100キロを上げたとしたら、そこにはシューズ、グローブの代わりに自分が獲得した他力が働いている、ということになります。
地力の100キロを伝える力を自分の感覚でよそから借りてきている。
バーベルの真芯や、地面の真芯を捉えてそこに吸着する力です。
この時、バーベルを上げている人はバーベルと地面と一体化しています。彼我一体、陰陽合一です。
これがもし、相手を打つという力として発揮されるならば、地面と相手と繋がっている、ということになります。
つまり、ある一定の段階、他力を認識する段階に至れば、発勁で相手を打つ時には相手の中の力も用いていると感じることが私には多い。
この時、彼我の区別は私と言うエゴにはつかなくなることがあります。
こういうことが、他力ということだと私は感じています。