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アジアの身体哲学から観たエブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス 注・ネタバレ

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 話題の映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を観てまいりました。

 以下ネタバレとなりますので、お好みでない方はご回避ください。

 さて、この作品、80年代の香港映画ファンにはおなじみミッシェル・ヨーが主演のハリウッド映画ということで話題となっていました。

 ジャッキー映画で車から落ちるようなアクションを連発していたあの女優さんです。

 当時はミッシェル・キングだったと記憶しています。

 のちにピアース・レミントン・スティール・プロスナンがジェームス・ボンドになった時にミッシェル・ヨー名義でクレジットされており、英語圏ではアジア性を前面に押し出していたんだろうな、と感じていました。

 そんな彼女も、もうだいぶの御年齢となっています。

 今回はインディ・ジョーンズやグーニーズに出演していたあのキー・ホイ・クァンと夫婦の役どころをしています。

 マルチ・バース宇宙の危機をカンフーで救う、というざっくりしたアラスジが今回の「エブエブ」では事前に語られていましたが、この映画、決してそのような「カンフー映画」ではありません。

 結論から言うとある種の功夫否定映画です。

 というのも、この映画は主人公が行った行動から無限の可能性が発生して、その分だけ可能性宇宙が発生している、という設定となっているのですが、アルファと呼ばれる宇宙では彼女は多元宇宙の研究をしている科学者で、そのマルチバース間を自由に意識がジャンプできると言う方法を発明してしまいます。

 並行して、自分の娘をそういったジャンプによって全ての宇宙を把握できる超人にしようと追い込んで実験した結果、彼女の精神を破壊してしまいます。

 結果、娘は全ての宇宙を任意で往来し、また居場所である宇宙の因果を自在に操れるという存在になります。

 ある種のなんでも可能な魔法使いとなってしまうのです。

 それだけではなく、彼女は全てを知っている全知の救世主のように崇められるのですが、彼女の存在は全てのマルチバースの独立性を破壊することになっていってしまいます。

 その彼女は、物語のメインの世界の母親、ミッシェル・ヨー演じるエブリンを捕まえようとしてターミネーターのように迫ってきます。

 アルファ宇宙の彼女の父親と祖父は、責任を持った大人らしく娘の計画を阻止してエブリンの元にジャンプしてきてカイル・リースのように彼女を救います。

 とはいえ相手は全知全能の魔法使い、一体どのようにして救うのかと言うと、エブリンに別の世界の彼女の能力を獲得する方法を与えるのです。

 アルファ宇宙の彼女が天才科学者であったように、あらゆる宇宙中のエブリンはそれぞれの能力に長けています。

 それらから能力を借りて様々な能力を発揮して危機を乗り越えるのですが、その中に功夫マスターの弟子として武術の腕を磨いた自分と言うのがいるのです。

 実際は、彼女は師のように悟りの道に向かうことはなく、功夫が出来る女優として現世的な成功をおさめます。

 とはいえ、きっちりと修行をしたのは事実で、初めエブリンは彼女の戦闘能力で戦います。

 なのでこの映画はカンフー映画だと言われることがあるのですが、これ、実は「振り」です。

 最初はカンフーで戦うのですが、途中からはピザ屋さんの店員さんの能力で戦ったり、鉄板焼き屋さんのコックさんとしての能力で戦ったりと、カンフーで済む部分をあえてそれだけでは済ませなくしているのです。

 そんなこんなで襲ってくる娘とその信者たちと戦っている内に、やがて娘の計画が見えてきます。

 それは、人生の結論は苦しみであり、喜びは僅かでまったく意味がない。なのでベーグルから作った「ポータル」を通して多元宇宙から外に出て行こうということです。

 そして、もし彼女がそうやって多元宇宙の外に出ることになると、どうやら全ての多元宇宙は消滅すると予測されています。

 ではなぜ彼女はそのような結論に至ったのか。

 それは、ずっと彼女の母親が抑圧し、暴言を浴びせ続け、存在を否定してある種の虐待を続けていたためです。

 そうやって苦しみを与え続け「お前の存在には意味がない」と言い続けてきたことで彼女は世界は苦しみであり無意味だと思うようになったのです。

 これ、アルファ宇宙のエブリンだけでなくて主人公のエブリンもしていたのですね。

 彼女の容姿に対して「あなたは太りすぎだ」と否定し、彼女が同性愛者であることを認めても居ない。

 そもそも彼女は、他人の言うことをまったく聞かないので、他人と会話が成立しない。そういうタイプのよくいるおばちゃんなんですね。

 なぜ彼女がそうなったのか。

 彼女自身もそうして父親に接されてきたからです。

 その結果、自分を抑圧する相手には媚びへつらい、良くしてくれる相手は圧搾するという搾取の構造を構成して来たおばちゃんなんですね。

 このお話は、そういう無自覚に確実に邪悪なおばちゃんが、人の話を聞けるようになって変化してゆくというお話です。

 そうやって能力を発揮していった彼女は娘と一緒にいくつもの多元宇宙を移動してゆくのですが、興味深いのはその一つ、何も生命が生まれなかった宇宙に至った時です。

 そこでは彼女も娘もそれぞれ石として存在しています。

 その状態に対して、彼女は「気持ちいい……」と表現しているのですが、すぐにその、何もないと言う平穏からまた心に執念を抱いて、娘を追いかけ始めます。

 そして今度は娘が逃げてゆき、彼女が追いかけると言う転倒が続きます。

 最終的に彼女は、宇宙の外に消えようとする娘を引き留めようとするのですが、その段階では彼女は襲い掛かる娘の信者たちの心を読めるようになっており、そこに眠っている欲求を叶えて上げることで戦意を失わせると言うある種の救済者に進化しています。

 ここで注目したいことが、その信者たちの額には、黒い円が描かれており、彼女の額にはオモチャの目が貼られているということです。

 黒い円の方は、娘がこの世界からの出口としているベーグルを象った物なのでしょうが、これ、おそらくは禅なんです。

 禅画の円ですね。本来無一物という禅の宇宙観を表現した物です。

 それでいうなら、あの生命が存在しない石しかない世界の状態は、禅の状態なんですね。

 しかしそこで彼女は、静かな禅の精神状態を破って執着の世界に移行しました。

 その彼女の額にあるオモチャの目、これはグーグル・アイズと呼ばれる物です。

 つまりベーグルとグーグルなんですね。

 発音から察するに、ベーグルはどうもBe goalように聴こえます。

 完結させようとする意志ではないでしょうか。

 対してグーグル・アイズは何かというと、額の目、これはシヴァ神の開眼を思わされます。

 仏教とヒンズーと言うのは対立関係にある思想です。

 ヒンズー教というのは、それまではバラモン教とかヴェーダ教として伝わって来たインド神話の価値観が、仏教によって否定されたことから対抗すべく体系化した物です。

 その説話の中では、仏教と言うのは人々に試練を与えるためにあえて間違った教えを広めるべくヴィシュヌ神が仏陀というアバターを借りて世に広めた物だとされています。

 ここに観るのは、そういった仏教とインド神話の対立なんですね。

 現世は苦しみしかないから全ての曼陀羅宇宙から解脱しようというのは、これ仏教の価値観ですね。

 その結果、人を苦しめるばかりの宇宙が滅びたとすれば、それは大いなる救済です。

 この仏教のアナーキーな考え方は現代の私たちには恐ろしく聴こえますね。

 しかし、血縁を断ち切るというのはお釈迦様がされた出家、生からの脱出という解脱は仏教の中核的な教えなんですね。

 娘がしていたのはこれです。

 それに対して、額に目を開いたエブリンの姿は、シヴァ神の開眼を思わせます。

 これまで何度も書いてきたように、インドの大伸はシャクティと言う女神と雌雄一体となっています。

 シヴァ神の対になるシャクティはカーリー女神です。

 彼女は神話学で地母神と言われる存在の典型で、自ら子供を産み、それをむさぼり食うという姿に象徴されます。

 これ、娘を抑圧するエブリンその物ではないですか。

 娘が悟りを開き、解脱しようと言うのを邪魔し、抑圧し、阻害して食い殺そうとする。

 この、カーリー女神の母性とは一体なにを意味しているのでしょう。

 それは、生まれ変わりです。

 仏教以前のインドの神話的宇宙観では、全ての生き物は生まれて死んで生まれ変わります。

 それが永遠のサイクルとなっているのが救済であったのですね。

 なので、大地の化身である女神が全ての命を産み、そして死によって自らのうちに再び取り込み、やがてまた産み落とすと言う永遠の象徴として描かれていたのです。

 ですが、それは苦しむだけの無意味なことなので、もう生まれてこなくて済むように永遠の転生から外に解脱しよう、と別の形の救済を唱えたのがお釈迦様であり、それが仏教なのです。

 この映画の母と娘の対立はつまり、アジアの古典的な世界観の対立が背景にあったと読める訳です。

 ですので、額に黒い円を描いた娘の信者たち、象徴的仏教徒たちに対してエブリンは立っていた欲望を見抜いてそれを叶える形で棄教をさせていく、という訳です。

 それは生からの永遠の離脱を測る仏教からすれば、生への執着という堕落でしょうが、ヒンズーの価値観からしたら願いが叶うと言う現世の喜びです。

 最終的に、娘は解脱をしそこない、世界は仏教的昇華をしそこねます。

 エブリンは元の日常に戻り、そこで相手の話を聞き、心を察して願いをかなえてあげようとする優しい人として生まれ変わります。

 転生をしたということですね。

 その繰り返しに救いはあるのだ、という形で物語はまとまってゆきます。

 エピローグの中で、エブリンは娘の恋人のツーブロックに触れて「髪を伸ばしてね」と言います。

 初め意味が分からなくてキョトンとするのですが、これ、つまりボウズを辞める、還俗を意味しているということではないでしょうか。

 本来、カンフーというのは少林寺の禅の行であり、途中に出て来た石になったような状態が由とされているはずです。

 まぁ、修行中の私の見解なので、その先の悟りもあるのでしょうが、禅と言うのは「鬼に会っては鬼を斬り、仏に会っては仏を斬る」という苛烈なほどに虚無への回帰の修行を志す物です。

 しかし、エブリンはそれを否定している。

 であるのでこれは、功夫は思想的変遷の経過として出て来たけれども、実は仏教思想を否定している段階でこれはもう、反カンフー映画、非カンフー映画である、というお話でした。


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