エブエブについて付けたしがあります。
ここでの記事らしい物になり、また以前に書いたことの繰り返しになってしまいます。
額にある第三の目という物がシヴァ神の象徴であるということを書きましたが、これにも興味深い由来があります。
シヴァ神は瞑想の守護者であり、ヨガを編み出した神様だと言われているくらいで、本人も常に瞑想をして修行をなさいます。
というか、シヴァ神以降多くの神様どころかヤシャなどまでが修行をするために、結果強くなって神様を滅ぼしかけるということさえ起きているくらいです。
そのシヴァ神が、瞑想に入ったきり戻らなくなったことがありました。
それでは神としての役割を果たさないので困る。これじゃ天の岩戸だということで、他の神々やマーラは相談してどうにかシヴァ神を起こそうということになりました。
そこで目覚まし役となったのが愛欲の神、というかまぁマーラ、でもあるカーママーラです。
カーマ・スートラのカーマですね。
これはギリシャで言うエロス、後のキューピッドに相当する物で、矢で射ることによって愛欲の情を掻き立てる存在です。
このカーマが瞑想をしているシヴァ神に向かって矢を放った時、瞑想をしたままのシヴァ神の額に目が開き、そこから光が出て矢とカーマを焼き尽くしました。
ここまでの出来事は、愛欲の煩悩にも妨げられない、強い瞑想の開眼、という解釈が成り立ちます。
しかしここからがこのお話のポイントです。
シヴァ神はその後、目を覚まして仕事に戻ったのは良いのですが、今度はカーマが居なくなってしまったために人間達が発情しなくなって絶滅の危機に向かってしまいます。
困ったバラモンたちはシヴァ神に抗議し、呪いを掛けます。
それによってシヴァ神の性器はもげて地に落ちた、それがシヴァ・リンガムの始まりである、というのですが話はまだ続きます。
抗議を受け止めたシヴァ神は確かにこのままではいかんということで、カーマの役割を引き継いで、世に愛欲を広める役割を受け持つことになりました。
つまり、エブエブにおいて、第三の目が開眼したエブリンが相手の心に眠る煩悩を見通して、それを掻き立てて叶えることで禅的な思想を持つモンクたちを使命から堕落させて無力化させる、という描写はこういうことであろう、という次第です。
そして、彼らの解脱思想に対して永遠の日常を喜びをもって生きよと押し通してゆくエブリンの思想は、これ、ニーチェ君ですね。永遠回帰です。
でもね、これ、あの可愛いラムちゃんとだったら閉ざされた世界で永遠の日常をビューティフル・ドリーマーするのもいいと思えるかもしれません。
いや、それだって私はやっぱ向上と前進で何者かになりたいと思うかもしれません。
楽園の俘虜と言うのもやはり苦しい気がします。
それが、ラムちゃんどころか自分のかーちゃんとだったら、まぁ、昭和の孝行息子ならともかく、軽薄な現代人である私にはもう、地獄と言って良い物になる。
つまりこれ、水平思考と垂直思考の対立だとも取れますね。
ではその水平的世界においてどう垂直を求めるか、というのがニーチェ君の永遠回帰で、それはつまり、その世界を喜びをもって生きよ、ということです。
そんなこと可能なのか? と思うのですが、これ、ニーチェ君は「超人」だと呼んでいるのですね。
超人だよなあ。
永遠の同じ日々の中でも人は学問を積み、自分を向上させることが可能である、という映画の話をいままでも取り上げてきました。
ビル・マーレ―主演の「恋はデジャヴ」であり、近年公開された「パーム・スプリングス」でした。
閉塞的な日常の中でも、人は向上して良い物になれる、というお話と解釈して良いでしょう。
恋はデジャヴの方ではずばり、閉塞した同じ毎日からの脱出法は「人に親切に生きる」ということでした。
それだけが日常を意味のある物にするという、アドラー心理学の考え方です。エブエブにおける永遠の日常を牢獄から希望に変えたのはずばりこれでしたね。
これらのことを考えた時、私は現代の社会に生きる我々はかつてなく恵まれた生活をしているということを痛感します。
それは単に、シャワートイレがあったりミュージック・プレーヤーがあるからというだけではありません。
人類のこれまでの歴史が積み上げてきた英知に容易にアクセスが出来るからです。
古書店に行けば数百円、図書館に行けばほぼ無料で、いくらでも学んでゆくことが出来る。
すべての本を一生のうちに読むことは出来ないから、実質無制限に頭を良く出来ると言っても良い。
こんな時代はかつてないでしょう。
そしてこれによって、無限に成長して賢くなり続けられる人間と、中学生くらいのままで何も変わらないまま老化だけしてゆく人間に極端に分断が起きます。
学問は人を自由にします。
学ぶことで人は自分を自分の思い込みで作った牢獄から解き放つことが可能です。
そういったことを、1800円払えば映画館で教えられることすら可能な時代です。
私もまた、そのための伝統的なメソッドをレッスンで伝えています。
いまのこの時代、良く生きるかそうでないかは大部分のところ、自分自身の選択にかかっていると言っても言い過ぎではない気がします。
もちろん各自事情はありましょうが、無駄な暇つぶしをモルヒネにして人生を消耗するより、魂に栄養を与えた方がいい。
同じ日常を送っていても、外に耳を貸し目を開いて他人の考えを知ることで、人は良い生き方を得ることが出来る。
エブエブはそういうお話ではなかったでしょうか。