神話学のキャンベル教授の本に、大変面白いことが書いてありました。
行によって闇の力を得た(感覚が覚醒した、非俗世的な知恵を得た、位の意)者と修行に失敗したただの精神病患者は非常に似ている、ということでした。
ことに、統合失調患者に関しては調べるほどに似ているとのことです。
私は一人の行者として、誤った修行をすることで精神に異常をきたすということに常に注意を払って指導をしてきました。
生徒さんを絞り、内容の伝授も人を見て行っているのもそれがあるからです。
私自身、師父の元に着いた初めにその部分への警戒をいただき、それを避けるための修行法を教わったという経験があります。
その内容は少し奥にある物らしく、指導許可を得るために師父は大師に連絡を取って下さいました。
これはいわば、修行と言う旅に用いるためのコンパスのような物です。
もしそれが無ければ、必ず道に迷って正しい方向に向かいなおせなくなってしまう。
多くの中国武術修行者やヨガ実践者が、まったく修行の効果を現せずに俗世の商売人のまま自己流に留まるだけならともかく、下手をすると狂人になってしまうのは師からこのコンパスを受け取れなかったためでしょう。
つまり、相手にされて居なかったか、あるいは単に見捨てられていたか。
または、旅に出るには準備が出来ていないと見なされて渡されなかったのかもしれませんし、あるいは提示されていたにも関わらず本人がエゴに迷って受け取らなかったのかもしれません。
人間の勝機は、極めて脆弱な物だと私は思っています。
いまこうしている私だって、次の瞬間狂気を発しているかもしれないし、あるいはすでにそうなっていてもおかしくはありません。
正気の座標と言うのは、バリアフリーの手すりのように触れてしがみついて体重を預けられるような物理的な具体が存在していません。
そのような拠り所の無い宇宙に、我々一人一人の宇宙は裸で放りだされているというのが現実です。
エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスでオスカーを獲得した監督は、キリスト教原理主義の環境で育ったと言います。
しかしその後、信仰を失ってしまうことになったそうですが、その時にものすごい不安を感じたのだそうで、それが今回の作品のモチーフになっているということだそうです。
この「人間は神が作ったものであり罪のために地上に追放されており、地球を支配するという使命を果たせれば許されるのでそれが存在の目的である」というキリスト教の世界観は近代哲学の段階で否定されているはずなのですが(ニーチェ「神は死んだ!」)、実際のところは決してそうとは言い切れません。
なぜなら多くの無辜の民がかつての監督と同じくキリスト教的な信仰を抱いて生きているからです。
ですから、人種差別も植民地主義もウクライナへの侵攻も起こっている訳です。
戦後日本も近代化の名のもとにこの思想の影響を受けており、アメリカの属国として機能しています。
ですので、キリスト教系カルトに長いこと政治が食い物にされているのでしょうし、権威主義へとまっしぐらに進んでいる訳です。
なぜ権威主義に繋がるか。
それは、人間が自分一人で宇宙に座標を見つけられない場合、強烈な権威にすがりついて安心を得たくなるからです。
19世紀、神の死によって座標を見失った人々の状態を、ハイデガーは「不安」と名付けました。
この「不安」を感じる、信仰を失った人々のことを「実存」と呼びます。
その思考を引き継いで後に実存主義が生まれました。
これは神の家畜というスタンスを離れて自分自身の現実的存在をその根拠として生きるという主義です。
しかし、それが出来なかった人々は神の牧夫に変わる自分の支配者を求めます。
自分の足で立って自分を生きるのではなく。
そうした人々が権威主義の奴隷となります。
資本主義というのはこの構造によってなりたっています。
対して、自分で立つという道、これを自立と言います。
私はいつも、自分の指導している伝統的なアジアの行のことを、自己の確立をして自由に生きるための物だ、と言っています。
人の決めたルールで人の決めた競争を必死で行って一生懸命他人に褒めてもらおうという奴隷の価値観では無く、自分で立って自分で考えて自分の生を規定するところから始まる生き方のエクササイズです。
インドのヨガ、中国の禅から来ている修行です。
単に柔軟体操をしたりパンチやキックの練習をしている訳ではありません。
そんなことはどうでもよい。
パンチやキックは修行の様相にすぎません。
大切なのは自己の確立です。
それはハイデガーの言う「不安」からの決別の道です。
つづく