さて、前回は改めて行の本質について書いたところで切り上げました。
今回は、その行に必要なコンパスについてから始めましょうか。
他人に褒めてもらおう、認めてもらおう、そうすることで自分が生活が出来るようになる、という水平思考、福沢諭吉先生言う処の百姓根性、孔子の言う小人の思想、一言で言うなら奴隷の生き方をしている限りは、外部の権威にしがみついているという安心感が得られる反面、常にその水平の競争、つまり自分とどっこいの人間とのどんぐりの背比べから敗北したなら自分は無価値になる、食ってゆけなくなる、生きてゆけない、という強迫観念から逃れることが出来ません。
萩生徂徠が記した「弁明」よりこの小人について抜粋してみましょう。
「民の務るところは生を営むにあり。ゆえにその志すところは一己を成すに在りて民を安んずるの心無し。これこれを小人と謂ふ」
己が生きるために己を成すことばかり考えて公共概念が薄い。それが小人だと言うことでしょう。
これを孔子様は小人、すなわち奴隷だと言ったのです。
この生き方を続けていれば、死ぬまで一生そのままです。
このような状態に至ってしまうと、生を営むのに苦労するようになる老齢に至るより前から、早いうちから解決としての死を求めるようになる、というのがハイデガーの説です。
実に凡庸でつまらなそうな人生観なのですが、それでも圧倒的にこの思考の人間が多いということは、凡庸で当たり前な「常識的」な思考パターンであるのでしょう。
しかし、人はここから抜け出せます。
そのために必要な、過去の偉人や聖人、天才たちが蓄積してきた英知は今の我々の環境においては驚くほど簡単にアクセスできるからです。
いまあなたがこの記事をご覧になっている端末をちょっと使えば、プラトンやソクラテス、釈尊に老子や荘子など、人生を束縛する既成概念から離れて精神を自由にするための方法についていつでもアクセスが可能です。
しかし気を付けなければいけないのは、それらの情報はいきなり理解するのは少し難しいということです。
いま、近代哲学の英雄たちの名前を上げなかったのは、西洋哲学という物がソクラテス、アルキメデス、ピタゴラスと言ったところから順を追って読んで行かないと理解がしがたいものだからです。
となると、その苦労を避けたくなってしまうのは人情の必然。
しかし、二、三年程度のその苦労を避ければ一生奴隷の人生で終わります。
となると、そこは現代人に分かりやすく簡略化されたハウトゥ本やコンビニ本の類で内容をさらうか、と思ってしまいがちですが、そこが迷い道です。
初めに書いたように、修行の道では必ず迷ってコンパスが必要になります。
多くの自己啓発本の類はその迷い道に相当します。
一体どうすれば見分けられるでしょう。
それは、現世利益を書いていないかどうかというところでしょう。
哲学だ真理だということを言いながら、結局は奴隷価値観の現世での利益に着地するような本は、みんな迷ってる人々をさらに惑わせて小銭を掠め取ろうというインチキ教祖の出版物です。
だからスピリチュアルはダメだと私は繰り返し言っているのです。
本物の真理は、現世で得をするための物ではありません。
むしろそのそこから離れてゆくための物です。
さぁ、ようやく本題です。
現世の「常識」、つまり奴隷の生き方から離れるとどうなるか。
二つに一つです。
一つは単なる脱落者、狂人となる。
もう一つは正しい道に至る。
です。
そして、個人的に言うなら前者が九割です。
ここでキャンベル先生の言う、正しい道に至った者と統合失調患者は極めて似ている、という話に戻ってまいりました。
つづく