現代人の感覚からすれば、幼くしてシンママ家庭でヤングケアラーを勤めていた炭治郎の精神状態には、AC的問題が発生しないのかと心配になるのですが、どうやらその気配はありません。
あくまでまっすぐないい子です。
そうだ、彼は戦前の子供なのです。
我々戦後の平和な世代ではない。
子供が子供を育てるのが当たり前だった時代の子供としての、ヤングケアラーであり児童労働者です。
まだ日本が先進国ではなかった時代のお話です。
そんな彼は、鬼殺隊に入ってからも病床の妹を抱えたままのヤングケアラーとして任務にあたります。
これが可能であるところが、やはり鬼殺隊の労働環境のホワイトなところでしょう。
そんな彼らと対になる兄妹が鬼の側にもいます。
これが吉原編に出てくる鬼で、セックスワーカーをしています。
なぜそんな堂々の少年マンガで吉原を描くのかということが問題になっているというのは聴いていました。
しかし、この作品が現政権下の社会を描いた物語だとして読んだときに、貧困家庭の子供がセックスワーカーになる、ということは意図して描かざるを得なかったのではないでしょうか。
セックス・ワーカーに関してはこの物語が書かれたCOVID19下で注目されたトピックです。
なぜ彼らが差別されて公助を避けられねばならなかったのか。
そのようなことを訴えるために、作者はこの過酷な課題を選んだのではないでしょうか。
これは決して、私がそのようなことばっかり考えているからではないと思われます。
鬼滅の刃のお話自体が、ワクチンを見つけるという縦軸を持ったお話であるからです。
そのような病弊の脅威が行き渡った環境の中で、搾取環境の構図にある社会に所属する鬼と、そうではない環境の社会構造にある生き方を対比した物語として意図された物であると感じられます。
作者は恐らく、保守派組織の搾取の構造を繰り返し書きながら「いまの社会はこういうことだぞ、お前らが自ら望んでいるのはこういうことなんだぞ」ということを力強くメッセージし続けていたのではないでしょうか。
この吉原編に登場する鬼殺隊の幹部は、一夫多妻の家庭を持つキャラクターです。
これ、まさに現政権が主張する一夫一婦制が、近代に入ってから作られたフィクションであるということを隠して表現してはいないでしょうか?
この調子で、鬼滅の刃は現社会批評として読む要素で構成されています。
つづく