社会批判としての鬼滅の刃について語ってきました。
要約するなら、機能不全家族の出身者たちを搾取する組織と福利厚生する組織との対立という背景の上で、健全な家庭間隔を持った主人公が歪んだ価値観を糺してゆく話だと言えましょう。
最終章で、とうとう権威主義体制の権化であるキブツジムザンと主人公の炭治郎少年は対決をするのですが、ここで驚くべき事態が起きます。
主人公の炭治郎少年、ここまでの長い戦いの中で、一貫して道を踏み外して鬼になってしまった機能不全家族出身者に対して優しい視線を向けていました。
同じヤングケアラーとして理解と共感をしめす、エンパシーをもって手を差し伸べていました。
キブツジムザンはそんな炭治郎少年に、自分から和解を持ち掛けます。
私は、ここでのキブツジムザンの演説にそれほど違和感を持ちはしませんでした。
プラグマティックに理解は出来るように思ったためです。
ただ、そのお話の枝葉の部分には、相手に対するガスライティングが含まれては居ました。
つまり、権力者のいつもの奴です。
自分のせいでおいつめられている大臣が「捏造だ」などと言い出して相手が異常だということにしようとする行為のことです。
英語で言うなら「フェイク・ニュース!」ですね。
その部分に注意しつつ、人類はそれでも鬼と対話し、すり合わせが可能かと思われたのですがしかし、子供の正義一直線の炭治郎君の反応は予想外の物でした。
「ダメだこいつ」と一刀両断に冷たい判断を下すのです。
アホの善逸少年に対して「こんなバカ見たことない」冷たく見下ろしながらも許容をしたり、えばるだけの発達障害である伊之助少年に対して、可哀そうな奴なんだな、と生暖かいお愛想対応をしていた炭治郎少年が「他の生命に対してこんなに冷たい気持ちになったことはない」とバッサリ切り捨てるのです。
いままでの苛烈な戦いの中で彼が見せて来た鬼への優しさとか、全部ここへの振りだったんですよ。
キブツジムザン片思い。
一瞬で振られた彼と炭治郎少年との戦いになるのですが、追い詰められたキブツジムザンは勝敗などと言うゴミの役にも立たない表面上の彩は投げ捨てて、延命のために逃走の一手に走ります。
その最中、新陳代謝が追い詰められて加速し、生物としての進化を繰り返した彼の究極の姿は、巨大な赤ん坊でした。
これ。
これこそが、権威主義の正体である。
ということでしょう。
かつて、オルテガ・イ・ガセット先生が「大衆の反逆」において世の中には甘やかされた子供のママの大人が氾濫して社会のマジョリティとなってやがて乗っ取ることだろう、という問題提起をしましたが、いまの権威主義社会各国はまさにそれそのものになっています。
その象徴がキブツジムザンであり、その本質がまさに描かれたということでしょう。
この段に居たって彼はやはり炭治郎少年との融和、合一政策に全力を注ぎます。
しかし当然「ダメだこいつ」な炭治郎には見捨てられたまま死んでゆくのですが、この巨悪の最後のセリフは「私を一人にするな」でした。
……。
なんという弱さ。
成長の出来ていなさ。
大人に成れていなさ。
精神的な自己の確立が出来ていなさ。
これはつまり、そういう物で群体生物として成り立ってきた俗な権威主義社会の正体を暴きたて、そして切り捨てたということだったのではないでしょうか。
このお話は現代ではない大戦以前の時代背景の物語だと書きましたが、普通はこの時代設定にすると、キブツジムザンが逃げ延びて軍の中核に潜伏して行って国が権威主義化して戦争に至るって話を書くと思うんですね。
帝都物語みたいに。
しかし、このお話はそこに向かいませんでした。
代わりに、現代に時間が飛んで今の時代を生きる登場人物たちやその子孫が描かれます。
ここにまた、我々はメッセージを観ることになります。
作中では書かれなかった大戦が、物語の中のメインの時代とエピローグの時代を分っている訳です。
戦争は、どうして起きた?
どうして起きる?
その問いかけを浮き彫りにしているのではないでしょうか。
すべてが現政権の権威主義への批判に読み取ることが可能であるように思います。
この漫画を読んだ全ての子供たちが、いまの大人達とは違う、自分の頭で物を考えて正しい行動をとることが出来る炭治郎少年の生き方を抱いて大人になってくれることを望みます。
おそらくはそれが作者の方の願いだったのではないでしょうか。
そんな彼らの未来のためにも、いまの大人である私たちも、出来る限りの正しい生き方をしたいものです。