第95回アカデミー賞が発表されました。
今回はアジア系がフィーチャーされた回として話題になりまして、私が推していたインド映画RRRや、ついこのあいだ記事を書いたエブリシング・エブリウェア・オールアットワンスの受賞が発表されました。
しかし、これは結構私には痛し痒しなところがありました。
それを現すのが以下の記事です。
過去の記事でRRRについてはかなり書いているのですが、RRRのすごいところとして、ボリウッドではないというところがあります。
この発表での誤謬は単に言い間違えであるとも受け取れるのですが、そうではなくて司会者側の思い込みとして「インド映画はボリウッドなんだろ?」という雑な偏見があったのではないかという気がして仕方がありません。
それがこの、作品賞では無くて楽曲賞としての選考にも表れているように感じます。
この作品は突然ミュージカルになったりはしません。
踊るのは舞踏会でのシーンでだけ、唄うのは民衆に決起を訴えるために呼びかけるシーンでだけです。
どちらも物語の中で踊る場所、唄う意図があって行われるだけで、決して演出上の文脈として行われてはいません。
そこがインド映画=歌って踊るボリウッドという偏見を破るところであったはずなのに、偏見を解除しましたよ、といわんばかりのアカデミーでの選考において明らかに偏見が感じられる。
この気まずさよ。
RRR、全然ナートゥ的な作品じゃないですからね。
あれ、むしろ全体としては例外的な平和で楽しいシーンですからね。
昔手塚治虫の漫画がキスシーンがあるってだけでエロ漫画扱いされたみたいは話ではないですかこの選考は。
そのような、まだまだ根が深い偏見と無知、無理解があるという振りの上からエブエブの話ですが、これもまた、前提としてアジア人への偏見、アジア人が関連する映画への偏見がある、ということを強く感じています。
インド映画は歌って踊るボリウッドだろ、という偏見とほぼまったく同じ構造にあると感じるのが、エブエブはカンフー映画、という物です。
以前に書いた通り、むしろこれはカンフーを土台にしてその先に抜けて行く、いわば脱構築映画なのですがいまだに世間では、評論家の人も含めて「カンフー映画」ということになっています。
これって例えば、五社英雄の映画に刀や匕首が出てきたからと言って「日本映画はニンジャだ」って言ってるようなもんではないでしょうか。
それは違うか。
RRRは、自分たちの価値観が世の中のスタンダードだと思っている西洋社会への「俺たちはこう!」という作品に取れました。
同じくエブエブも「アジア人は普通、カンフーは出来ない」ということを浮き彫りにしているのに、カンフー映画だと評される。
ここに私は二項対立におけるデリダの視点を想起します。
デリダによると、イデアと現実、主観と客観、男と女にならんで、ヨーロッパとアジアは二項対立にあるとされています。
イデア、現実、主観、男、ヨーロッパは無徴であるとされ、現実、客観、女、アジアは有徴であるとされます。
これはつまり、サッカー、サッカー選手、と言ったときには通念上それが意味するのは男子である、ということです。
それが無徴であるということです。
ですので、同じ内容でも女性の場合は、女子サッカー、女子サッカー選手、とわざわざ断りを付ける場合を有徴と言います。
ゴルフにしても、女子プロなどと言いますし、女流作家や婦人警官、女医などと言う言葉があります。
これに対して男性の場合は男子プロ、男流作家、男性警官、男医などとは言いませんね。徴がない。無徴です。
このデリダの視点から、そのシステムを成り立たせている制度がその制度の不可能性の根拠となるとして機能不全を証明することが、よく言われる「脱構築」です。
RRRもエブエブもこの脱構築をメッセージした作品であるように私には受け止められるのですが、まったくそのように評価されていない。
ここに平素から私が言っている、骨の髄まで白く染められた現代社会が当たり前に思い込んでいるキリスト教圏文化による洗脳の威力を思い知らされます。
エブエブで描かれる主人公は、中国からの移民一世です。
中国で育って封建的なアジア思想に染められている主人公と、ABC(アメリカン・ボーン・チャイニーズ)である娘との葛藤は、これまでもここで取り上げてきたチャイナタウン探偵のシリーズでも延々と描かれていることです。
中華系のアメリカ移民に関しては、我々蔡李佛拳の根底とも言える太平天国革命で敗北した革命戦士たちの角度から書いたこともありました。
国を追われた彼等太平天国党員たちが、西海岸に移民してそこに一大地下帝国を築いたことも書きました。
当時のアメリカの中心地は、西洋人が上陸してきた東海岸です。
そちらから西側に向かって開拓を続けて行く中で、もっとも開発が遅れたワイルド・ウェストで土木作業に従事していたのが苦力と呼ばれる太平天国党員たちでした。
エブエブの主演をしたミッシェル・ヨー(私たちの世代だとキング)さんを私が最初に観たのは中国では無くて香港の映画でです。
香港は当時イギリス領。列強時代に英国が中国から賠償金として巻き上げた自治区です。
ミッシェルさん自身はマレーシアからの移民で、香港の人でさえありません。
英国に留学して教育を受けており、中国語は外国語として後から学んだ物だそうです。
この辺りの歴史に関しても、海賊武術の歴史としてこれまで繰り返し書いてきました。
彼女を見て、中国人で功夫なんだろ? という偏見は意図的にミスリードされた物でもありますが、武術に詳しい人からすれば、マレー? シラットの国じゃん、と思うことでしょう。
実際、うちの生徒さんでアルニスを専門にしていた方がいま、現地に移住してシラットを研究されています。
一定の知見があればそういった、その国独自の愛好者垂涎の文化がある国の人であっても、理解の無いコマーシャリズムの視点からは大雑把に「中国人です。カンフーです」とされてしまいます。
カンフーに詳しいとされている映画評論家の高橋たーやんさんは、彼女の若い頃からの映画に関して説明を求められて「スタント、格闘アクション」と称していましたが、これは私はさすがの知見と誠実な姿勢だと思いました。
80年代からのいわゆる香港映画のアクションはまさにそれで、ショウブラの中期以降の殺陣の見せ場はテコンドー、足の上がる俳優さんたちが活躍をしていた時代です。
イギリスでバレエを専修していたミッシェル・キングもまさにその代表でした。
昔の格闘小説なんかでは「カンフー独特のしなる蹴り」などと言う描写を目にした物ですが、実際にそれらは不勉強な作家が映画を見てでっちあげた嘘で、カンフーでは無くてテコンドーの蹴りです。
ちょっと長くなってきたので稿を改めて、次回にお話を続けましょう。
つづく