前回のお話では、トムJRがレクチャーしているスピリットとの向き合い方は、ネイティヴ・アメリカンの伝統的な方法ではないということを書きました。
今回は、そこで紹介されている内容について触れてゆきます。
忍び歩く狼がスピリットへのメソッドを自分の修行によって確立し、弟子を取ってそれを教えることで有用性を確認することが出来るようになったというエピソードの後は、トムの修行やその生徒たちの修行の例を通しての、彼の言うスピリットのメソッドが何かということが書かれてゆきます。
序盤のエピソードで謎であった、スピリットとは何か、それがどういうことなのか、そこに至るための道とはどのようなものなのか、ということが明かされてゆくのですが、まず、スピリットと言うのは恐らく、直観力、と我々が言っている物に近しいという印象を私は受けました。
伝統的な気功では元神と言われる物であり、老荘で言うタオを読む力であり、仏教でいう識と見なして良いことでしょう。
黄帝内経において、どれだけ医術の知識を得てもこれを得なければ本当には治療は出来ないとされていた部分です。
この物を認識する力とアクセスするために、トムのメソッドでは「聖なる沈黙」という行を行うのですが、これは実は瞑想です。
トムの文では、他の瞑想では座ったままや寝たままで行うために実践性に欠ける、と書いてあります。
トムのメソッドでは、いつどんな時でも、歩いている時でも走っていても生活しているときにそのまま瞑想状態にあることが重視されています。
が、それ、禅なんですよ。
日本の禅宗の印象では多くは座ったままで行うことが禅、座禅だと思われているかと思いますが、本来の禅は違います。
確かに菩提樹の下でブッダが瞑想を行った(ディアーナ)ことに禅は由来します。
禅宗を拓いた達磨大師は少林寺にて面壁九年の座禅を行ったと言われています。
が、実際には禅は座禅だけでなく、あらゆる時に行うと私は教わりました。
立っている時に行う立禅は私のところに来た生徒さんがレッスンの最初に行う物です。
歩きながら行う瞑想も多くの派に存在しています。この内、道教に伝わる回りながら歩くものが有名でこれは中国武術にそのまま取り入れられたとも言われます。
回るということではイスラムでも同様の瞑想があると言います。
最近では、ゴリラが回転するという現象が観測されたと言いますが、これもまた、ある種の瞑想であるかと私見しています。
この、動きながら瞑想をするということは、実はカンフーの本質です。
そのためにやるのであって、パンチやキックは目的ではありません。
瞑想の様態の一つとして戦闘の動作をしているだけです。
別に書を書く事でも絵を描く事でもお茶を入れることでもみな禅です。その中の一つが私も指導をしている少林拳です。
つまり、トムが唱える普遍的なスピリットとのつながり方と、気功や禅、少林拳とは実質基本が同じだと言って差し支えないようです。
つづく