最近老師から、以前にもまして単練をするようにと教わることが増えました。
単練とはひとつながりにルーティンを行う套路ではなく、一つ一つの動作を繰り返し行う練習です。
もっとも以前からこれは言われていたのですが、その色合いが変わったように思います。
以前、岳家拳を教わっていた頃はそれそのものが一つ一つの技を繋いだ格技的な物だったので(プレーンな弾腿をイメージすると印象が伝わりやすいかもしれません)、単練を大切にと言う意味はイコール練習をたくさんしなさいという意味と近いように受け取っていました。
通背拳の基本を教わったときにもこれをよく教わっていたのですが、その時に教わっていたのは基本功だったので、今後ずっと続くその拳の基礎をいまからしっかりと固めておきなさい、というニュアンスに受け取れました。
いまは、五祖拳の練習でそれをよく言われています。
老師が仰るには、いま五祖拳の套路はだいぶ進んできているそうです。
そしてここにきて、あらためて一つ一つの式をしっかりと単練するようにというのは、これはまた少し違った意味が含まれるように感じています。
というのも、中国武術においてはえてして、中身の充実した門派は単式練習(単練)で行う、という通念があるためです。
伝説的な名人の李書文先生が、八極拳を作り変えてその基礎として金剛八式という単練法を設定したということは良く知られています。
また、心意拳類もこれら単練を重視して套路よりもよく練習するという風習があります。
五祖拳に関する私の研究課題の一つとして、これが心意拳類の流れを引いているという可能性の追求というところがあります。
ですのでここで套路主体から単式重視になるというのはより深層に踏み込んでいるのではないかという感があります。
老師が曰くには、昔の中国では元々は一般の生徒には套路しか教えなかったと言います。
単練は弟子にしか教えなかったということもあったようです。
確かに、一般の生徒さんは套路をしていればやった気になるし、なにがしかになったような気になれる。
体力も付くし、健康には充分良いでしょう。
しかし、本当に中身の部分はそれだけでは教えない。また、身につかない。
一つ一つの套路の中の意味を単練で教わり、練ってこその本当の体得でしょう。
共産党は伝統武術を排除するにあたり、この部分もやはり禁止して套路だけを教義として制定しました。
それを真に受けて自分で套路を創作するような時代になっています。
それを武術だなんだと言っているのだから恐ろしい話です。
一方で本物は、真実を容易く公表はしない。
ウソと偽物が広まる世の中になる訳です。
私の生徒さんに教えるときには、まずは中身を伝えます。
もちろん入り口は残念ながら極めてせまく絞って下積みをしてもらう形にはなってしまっていますが、そのあとはとにかく中身を進めます。
套路はそれら中身をそろえた拳譜のような形で伝えることにしています。
このシステムは心意拳から踏襲したものです。
ただただ沢山の套路をやり、その中身を知らないのならば、すべては虚しいことでしょう。
中身を得ているからこそ、套路が後で役に立つ。
そういうことではないでしょうか。
いつもの繰り返しになりますが、表象ではなく中身なのです。