インドに触れてはいけない。
なぜならインドは沼だから。
だから身体哲学の研究は仏教の範囲に区切りなさい。さもなければ生涯インド亜大陸をさまよった挙句、なにもわからなかったということしか分からないで終わるだろう。
それは偉大な学問の人生だけれども、お前はそこまでの器の研究者ではない。
言語能力が無さすぎる。
そういう現世感覚に則って、自分の芯の通った研究生活を選びました。
しかし、仏教は東アジアに通底した価値観ではありますが、どうしてもそのルーツはインドになります。
アジアのはずれのフィリピンで身体文化を修行して、確かにそこでは仏教が消されているということを確認したのと同じように、源流に触れることもどうしても必要になります。
そこで、実際にはフィールド・ワークをしたり現地の物を学んだりはしないのですが、学問として文書による研究は必須となります。
そういった訳で、これまでもインドの仏教書やヨーガ、伝承についてなどに触れてまいりましたが、今回はとうとう、それらインド思想における決定的な身体哲学の聖典に触れることになります。
インドの身体哲学における二大聖典と言えば、ヨーガ・スートラ(ヨーガ経)と、バガヴァット・ギータ―の二つとなります。
今回は後者の、通称ギータ―について触れたいと思います。
バガヴァット・ギータ―とは「神の歌」の意味であり、ギータ―と訳すと他の歌物の経典全部が含まれそうな気がするのですが、そこは最大の聖典の一つ、ギータ―と言えばつまりバガヴァット・ギータ―のことなのだそうですね。
国大出身のエリートである、いつもお世話になっている阿闍梨はこれをBh Gと訳していたとおっしゃってましたが、それはいかにも学問の世界のことという気がします。
インド現地で勉強をしていた友人はやはりギータ―と呼んでいたので、どうやらこちらが地元の庶民の皮膚感覚なのではないかと思い、今回はギータ―と記述した場合、バガヴァット・ギータ―のことだとご理解下さい。
さてこの本、聴いたことの無い人にはさっきから何を言っているのか分からないかもしれませんが、表紙にを引用するなら「インド古典中もっとも有名な本書はヒンドゥー経が世界に誇る珠玉の聖典であり、古来宗派を超えて愛誦されてきた」とあります。
インド最大の抒情詩「マハーバーラタ」のうちの一章であるのですが、カルマを果たすべき直面に追い込まれて来た王子アルジュナに対して、従者であったクリシュナが実は世界を差配する主神であるヴィシュヌ神としての正体を現して「果たすべき役目を果たせ」と因果を含めて説得するというのが内容です。
その部分が、インド神話における、そしてそれらを再構築してアップデートしたヒンズー教における世界観と真理において明確に真実を説いた説法であるために独立して語り継がれて来た、ということであるようです。
いま、クリシュナがヴィシュヌ神としての正体を現してと書きましたが、これ、最近私たちは強い感銘と共に目撃したことと同じですね。
そう、映画「RRR」です。
あの中で主要人物が突然、自分がヴィシュヌ神の生まれ変わりであることを思い出して猛然と立ち上がってそれまでは避けていた闘争に走りますが、あれ、バガヴァット・ギータ―と同じ構図なんですね。
このようにインドの神々はアヴァターラ(化身)として様々な時代に生まれ変わって偏在しています。
生まれ変わった先では自分が神であるという記憶もないので、ある時にきっかけあって開眼するまで自分が神だと気づかないのですね。
我々思想なき現代日本人は、自分たちが思想がないという自覚すら持つのが難しい。
ない物は体感できないので当然ですね。
しかし、当たり前に話せば通じると思っているアメリカ人やイギリス人はプロテスタントの価値観に則って資本主義を運営しているため、自分たちの人生は神の使命のためにあると無意識にまで及ぶレベルで世界観が刷り込まれています。
ヒジャブやラマダンという目に見える印がないだけでムスリムの人たちと同じく明確な宗教的世界観に生きています。
インドの人々は同じく、イスラムやインド神話の価値観で生きています。
これはその、皮膚感覚としての世界観を知りための、非常に重要な経典なのです。
当然、ヨーガをする人はそれを知っていないと話になりませんし、ヨーガから独自進化して中華化した気功や中国武術においてもルーツとして大変に重要な物となります。
また、RRR、エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス、シン・仮面ライダーと言ったヨーガ価値観の映画が一斉に公開されているいまのサブカルチャー状況から言ってもこれを知ることはきっと面白いことになるのではないでしょうか。
では次回から、その内容に触れて行ってみましょう。
つづく