前回は、暗質の環境に生まれた者でも目を覚ませば変わることが出来ると書きました。
ちょいちょい書いてるように、私は最低のクズが吹き溜まっている環境で育ちました。
小僧時代に大好きだった仲間たちは、後に発達障害が判明した者が多い。
みんな、自由でのびのびとしていて、卑屈なところがない気持ちのいい連中でした。
彼らは暗質でしたが、善良でいい生き方をしていました。
しかし、大人になって社会に適応しようとしてからみんな変わってしまった。
水平思考に染まって、そこで自分が回りと比べて逆境で生きなければならないとなったときに、みんな他人をねたみ、そねんで、利用して足を引っ張ろうと率先してするような人間にどんどん変わって行ってしまいました。
発達障害から人格障害へ。暗質から激質への二次障害の併発です。
こうなるともうどうしようもありません。
卑屈で歪んだ救いようがない人間になったと思って私はもう付き合うことが出来なくなってしまいました。
彼らがヤクザになったり風俗で働いたりして多めにお金を稼ぐようになったり、カルトに洗脳されて自分が幸せだと感じるようになっても、私にとっては同じことです。
救いようがない。
それと同じ結論を、インドの古典ではヴィシュヌ神が出していました。
救いようがない。永遠に救われない最低の生しか送れないのだ。と。
だからあんな連中は無価値に皆殺しにしてしまいなさい。とヴィシュヌ神はアルジュナを説得します。
それでもまだためらっていると、殺してもまた生まれ変わるから大したことじゃない、と言います。
まぁ生まれ変わっても最低の生なのですが。
しかし、ここでもし、それら最低の生を送る社会的成功者の百王子たちや半神(インモータル)たちを皆殺しにしなければ、アルジュナもまた同じく、ダルマを果たせなかった最低の激質人種の仲間入りです。
純質に生きる者は、彼らをどこかで切り離さないといけないのです。
なんという過酷なことでしょうか。
そしてこれは、心理学的な解釈に着地しえます。
まぁ、神話学そのものが心理学から発生したから当然でもあるのですが。
つまりは、自分の感情と社会的成功だけに囚われていては、どんな英雄やカリスマ、成功者でも永久に心理を安定させることは出来ないが、社会的役割を自らになって責任を果たして活動する成熟した市民として生きるならば、精神は安定して充足した生を得ることが可能である、ということです。
こう書くと物凄く単純なことですね。
しかし、その単純なことが、何の思想もなく、またロールモデルも無く、社会的な教育制度もない環境ではとても難しいのです。
地図もコンパスもない状態です。
そしてそれがいまの私たちの環境です。
忍び歩く狼は、瞑想をし、自然の感覚を取り戻すことを提唱しました。
ギーターでは学問をし、瞑想をし、自らの役割を果たしてカルマの清算をせよとしています。
ここで記事を書き始めたホントに最初の頃に書いたことですが、古代インドではすでに文明が発達したために、文明病への対応が発達しました。
それがこれらの身体哲学です。
中国では老荘思想、すなわちタオの思想がこれを担いました。
世界で自殺者がトップクラス、経済は衰退して少子化が進み、精神疾患者の比率が50パーセントを越えるとも言われるこの国で、いまこそまさにこの発想に目を向けて、自らを救済し、人間的な成長をする必要があるのではないでしょうか。
そしてこのような人々が増えて幸せな生の中で自らを高めるために社会や隣人に良いことをしながら生きてゆけば、恩恵を受けた人々も幸せですし社会も良い方向に向かって、全方向がにっこりですね。