先日、老師から教わっている通背拳の足を教わることが出来ました。
「套路はいくらでも教えるが、歩法に関しては教えない」という言葉があるくらい、中国武術においては足の遣いは重要な物です。
これはある程度格闘技にも通じるもので、素人はすぐにパンチがどうだ速いだ強いだという表象に目が行きますが、分かってる人間はそうではないのですね。
それを支えている足にこそ根幹があると分かっているので。
ボブ・サップが格闘技デビューをした当初、その圧倒的な怪力が注目を集めましたが、ワンパンチの威力が見立てられるようになってからはまったく勝てなくなりました。
圧倒的な威力で常識を破壊する暴君から、痛くて自分から倒れちゃう甘やかされた嫌倒れの王子様へと評価が急変しました。
これは、結局のところ常識的な威力を想定してブロックをしていたから本職の選手がやられてしまっていただけで、受けずに当たらない戦い方をすればどうということはないということなのですね。
そして、その当たるか当たらないかという戦い方を理解できるほどの経験がサップには無かった。
以前にも書いた、プロの格闘家の優劣はパンチの威力では決まらないという奴です。
同じ系統でより不遇だったのは、元横綱の曙でしょう。
ボクシング経験があり、その巨体から凄まじい威力があると想定されていたのですが、彼のパンチが当たることはありませんでした。
格闘技の世界では当てカンというのですが、良い位置で的を捉えて効果的に響かせるというセンスがまるでなかった。
パンチと言うのは威力ではなくて当てカンだということの教材のような選手でした。
これ、私自身も苦労したことで、どれだけ威力を養っていてもグローブを付けて上手く利かせるというのがどうしても苦手でした。
曙関よろしく、押し込むようなプッシングのパンチになってしまい、いい間合いで響かせることが出来ない。
この辺りがやっぱり、打撃系の能力は生来のセンスだと言われている部分だと思われます。
私は知らないのですが、評判によると近年テレビで話題になっている素人格闘技のチャンピオンもこの当てカンが生まれつき非常に優れていたのだと聞いたことがあります。
瓦を何枚も割るよな空手のパンチが実際に人に当たっても大した威力はなく、ボクサーが軽く弾いたようなパンチがスイッチを切るように相手をノックアウトするというのはこの辺りの認識の差が大きい。
ただただ物理的に計測できる出力が大きければいいということではないのですね。
そして、この感性に繋がっているのが実は足です。なので彼らは嫌というほどロープスキッピングをしてロードワークを続けます。
現代ボクシングの理想は「蝶のように舞い、蜂のように刺す」ですが、これは実は同じことなのですね。
蝶であるから蜂でありえるのです。
この真逆が、南派中国武術の拳諺にある「蜂の百刺しより熊の一掌」という物です。
格闘技のような区切られた時間と空間、および手法と人数による戦いではなく、野生の状態の生の戦いではとにかく先に大きいのを一手入れないといけない。
特に中国では械闘と言って喧嘩では器械(道具)あり多人数対多人数が当たり前です。
その中で、蝶のように舞って蜂のように刺すでは通じがたい。
向こうから角材や鉄パイプを持った集団が波のように押し寄せて来て器械で殴りぬけてそのまま去ってゆく。
やられたと思ってやりかえそうと思ったころにはもう相手は居ない。
喧嘩の妙味は去り際だ、というのは日本でもよく言うことですが、そういうことですね。
パッと入れて嫌がらせをしてそのまま去って行ってしまう。
やられたもん負けです。くやしがっても取り返せない。
審判も居ないしラウンドもない。
そういった環境を鑑みると、老師に教わった足は必要不可欠な物となります。
走り抜けながら戦って、そのまま走って去ってゆける。
曰く「慣れれば車に乗っているようなもんだ」とのことで、やはり機動力を活かした戦い方が必須となることが分かります。
その足の移動の上で、歩法を阻害しない体用をして最大限の威力を出せるようにとしてゆきます。
これがすなわち、大開大合という物のようで、教わった足の遣い方では身体を大きく開いて大きく閉じるという動作と一つの物になっていました。
これはとても完成された精度の高い体系です。
そして、私のような走るのが嫌いな人間でも、武術の練習をしながら下半身の車が勝手に走って行ってくれるというのなら、好んで楽しく走ることが出来ます。
ありがたや。