さて、前回は、力を抜いても力は抜けないということをお話すると予告いたしました。
どういうことか。
生理学的には、人体は脱力をしても力は抜けないことになっているということを学んだのでこう言えるのです。
一般には、私のかつての先生が言ったように、脱力なんてのは力を抜けば自然にできると考えている方がほとんどだと思われます。
ですので、その力を抜いた動きが達人の動きだ、なんていう古武術関係者さえいます。
脱力の極意、なんてことを言ったりもします。
剣道は80代の高齢者が強いというのは「技が枯れる」と言って加齢で力が抜けてきたからだともいいます。
脱力や老化で力が抜ける、というのは、実は誤解です。
整理してみましょう。
一般の人の認識はこうです。
入力OR出力+ 0 -脱力
基準となる0の地点を中心に、能動的に力を使えば(プラスにすれば)力が使える。そのスイッチを切れば(-にすれば)脱力が叶う。
もう少し専門的に言うなら、力を使うのはカロリーを伴う+の行動であり、脱力はカロリーを使わない-の方向だということです。
しかし違います。
実際はこうです。
入力OR出力+ 0 +脱力
力を入れたり出したりするのはカロリーを使う+の行動である、というところは共通です。
そして、脱力もまた、カロリーを使う+の行動なのです。
これ、生理学的な真実です。
細胞の中にはミトコンドリアがあり、そのミトコンドリアの役割は内部にあるクエン酸回路と言われる器官によって酸素を燃やしてカロリーを産出することです。
このカロリーで筋肉があらゆる生命活動の燃料です。
筋肉を動かしても、心を動かしてもカロリーが消費されます。脳みそは最大のカロリー消費器官です。
そして、脱力もまた、このカロリーの生産によって行われる「運動」なのです。
結論から言うなら、脱力と言うのは脱力という機能を働かせるスイッチの作動によっておこるのです。
ですので、このスイッチが備わっていなかったり、その使い方を体得していないと放鬆や脱力と呼ばれる物は不可能なのです。
しかし、睡眠時は力は抜けているではないか、という人は居ます。
それはその通りです。
ですが、それは単に力を使おうという意思自体が無いので結果として能動的な活動をあまりしていないだけです。
ですので、人によっては寝入りしなにピクッ! と身体が震えたり、あるいは力が入って足を攣ったり、また歯を食いしばって顎関節症や知覚過敏になったりします。
覚醒と睡眠の切り替えは自律神経によって行われており、前に書いたようにこれは能動的には切り替えられません。
ですのでまず、睡眠に入るところから副交感神経にイニシアチブを渡さなければなりませんし、睡眠中の行動もしかりです。
それをコントロールしていたら、寝ていることにはなりません。
ですので、まず睡眠時は脱力しているというのはそうだとは言い切れないと言えますし、仮にそうだとしてもそのときはコントロール機関が違うので任意には出来ません。
酩酊したり薬物の効果で気を失ってぐんにゃりすることはあります。
これは薬物が神経に直接効いているからです。
意志の有無とは関係ありません。
さらに、睡眠でも無意識でも脱力はしない、ということに関しては、大きな証拠があることを学校で習いました。
おそらく、睡眠に至ると脱力すると思っている人は、さらに無意識が進んで死に至れば人間は脱力しきって軟らかくなると思っているのではないでしょうか。
違います。
人間は死ぬと硬くなります。
死後硬直です。
なぜこれが起きるのかというと、筋肉の中にある糖質(グリコーゲン)が栄養として消費されて、筋肉の力を働かせるからです。
推理小説などに詳しい方は、死後硬直はいずれ終わって固まっていたのは解けることをご存知なことでしょう。
これは脱力したからではありません。
細胞の融解が始まっているからだそうです。
つまり、腐敗し始めているんですね。
このように、生物は死ぬと硬直します。
ですので、魚や動物などを食べるために捕獲した後は、すぐに締めないといけません。
先日、捕まえた蛇を食べる美女の動画を偶然観たのですが、その時には氷締めにしていました。
マグロやカツオもどうようにしますね。
捕まえたらすぐに冷凍するのです。
鶏やジビエなどは血抜きをします。
そうしないと、血液の働きで筋肉が硬直してゆくからです。
血液は栄養と酸素を運んでいます。
これが前に書いたミトコンドリアのクエン酸回路に運ばれることで、エンジンと同じことが起きます。
燃料の糖質と酸素によって燃焼が起きて筋肉が動くのです。
そうすると、肉が硬くなります。ですのですぐに血を抜いて、クエン酸回路が働かないようにしてしまわないといけません。
また、肉のうまみと言う物がありますが、あれ、筋肉の中にある糖質のあまみに由来するそうです。
ですから、それが死後硬直で燃やされて無くなってしまうと味が落ちる。
という訳で生物を食べるときには即時の生き締めが必要となります。
ですので、眠っても死んでも脱力は出来ません。
むしろ生命は、放っておけば固まるように出来ているのです。
脱力、停止の方に能動的な作用が必要だということになります。
生まれつきそのスイッチを持っていて使いこなせる人やその才能のある人は、あまり考えずにその機能を発揮することができます。
しかし、そうでない人間は後天的にシステムを開発しないといけない。
力を抜けと言っても抜けないのは当たり前なんですね。
逆に言うと、八十代になって技が枯れたと言って力が抜けて強くなっている剣道高段者は、長年練習している間に脱力を自得したということです。
脱力は自転車に乗ったりバク転をしたりするのと同じく、覚えて身につける技術なのです。
伝統中国武術にあるのは、そのための方法を土台としたシステムです。
これはきちんと練功法を指導されて実践しないと獲得が難しい。
私が現在も、労力と時間と経費を使って(ほぼ人生そのものですね)学び続けてこのようなことを追求しているのは、きちんと科学的に正しい共通言語で人に指導が出来るようにするためにです。
正しい言葉で事実を正しく認識して共通言語で説明が出来れば、多くの人に伝統武術の体得が可能になります。
もし引っ越しなどで物理的に直接対面教示が出来なくなっても、正しい言葉で伝えていれば相手は自分でそれを学んで正しい方向に向かって進み続けることができます。
そういう師父であるために、私も歩み続けているのです。