前回、神の領域から人類が文明を奪い取るという神話について語りました。
このようにして神の下、自然から自立の一歩を踏み出した人類が次の段階で神を祀るに至ります。
これは、罪悪感の昇華だとされています。
神から物を掠め取り、他の生物の命を奪って生きて行くことに対する救済、あるいは賠償です。
このために、多くの民族が神々に食べ物を捧げ、五穀豊穣や狩りの成功を祈祷します。
このような儀式に働いている心理が、まさに取引の始まりだと言えましょう。
神々から物を掠め取った物の、それをより良い形に加工して返すことで一方的に取引の体裁を整えてしまう。
ことに農業の場合はこれは分かりやすい。
神の物である自然の土地を人間のために改編して占有することで食料を膨大な数にして収穫しますが、その代わりにそこからいくばくかを神を祀って備えます。
技術が進むと、稲穂を脱穀するという加工のみならず、餅にして美味しくしてお供えなどをいたします。
その加工の手順が神に捧げられる儀式となる訳ですね。
狩猟の場合だとおそらくは形式が複雑化し、また多様化するようです。
ネイティヴ・アメリカンの種族によっては、食料とすべく討ち取った獣の皮をシャーマンが被り、死んだ獣の精を降ろして儀式を行います。
これによって、人々は直接、自分たちが殺した獣に対面をするのですね。
なんとも都合の良い謝罪のようにも取れますが、このように動物に対する敬意を持っているところに、自然に対する畏敬を感じもします。
もしこれらの儀式が適切に行われれば、獣たちはまた人々の前に姿を現すことになります。
次の収穫に繋がる訳ですね。
しかし、そうでなければもう獣を取ることは出来なくなる。
ネイティヴ・アメリカンの多くの部族にはトーテム信仰とそれにまつわる階級制があるようで、成人のイニシエーションのおりに一人で自然の中に入って行って動物を獲得すると言います。
その時に得た物が自分の霊と一体化すると言い、先祖代々の家系図となるトーテム・ポールには父や祖父の守護動物霊が積み上げられてゆきます。
このように、動物と一体化することによって生命簒奪のサイクルにおける自分たちの立場を改変して言ったというのが狩猟民族における神話に基づいた儀式の在り方であるようです。
物語の力によって、自然界における自分たちの立ち位置を設定していったのですね。
つづく