前回、ネイティヴ・アメリカンの神話における自然と動物、人間の重ね合わせについて述べました。
対して、中国ではどうでしょう。
これは、人間はそもそも動物であるという考え方をしています。
中国神話における神々を観ていると、半人半獣の姿が多い。
これは元神と呼ばれる本能の部分が働いていることを表現しています。
人間文明的なものを100パーセント信頼して肯定しておらず、古代の神々の世界を理想とするというのが、儒教にも道家にも共通するモチーフです。
やはりここにも、人間的な文明化をすることに対する罪悪感、あるいは自然への懐古主義があるのでしょう。
人類以外のあらゆる動物は何の道具も作らなくても裸のまま生きて行けるのに、人だけはそうはいきません。
そのように、いわば生きてるだけで自然から殺されるような存在になってしまったことへの哀しみがあるのかもしれません。
その部分を逆転させて、動物の本能的な力をよみがえらせようとするのが気功であり、気功の運動である中国武術です。
これらの行によって、人間は自然回帰し、さらにはその自然に生きる神仙になりうる、というのがタオやそれが信仰となった神話における考え方です。
実際に人間がそうなるのかどうかというと、私は懐疑的であることを告白せざるをえません。
とはいえ、まだそこまで生きたことも死んだこともないので憶測の域を出ないのですが。
ただ、ここで現代社会に当たり前に広まっている、キリスト教的な考えかた、「自然は人間が克服するべき野蛮の暗黒領域である」という考え方とは一線を画していることはいえると思います。
彼らが自然の暗黒に文明の火をともして自然を作り変えようとする一方、アジアでは自然に適応して闇の中に安らぎを覚えられる生き方が尊重されてきました。
これが陰陽どちらにも均等に価値を見出す陰陽思想であり、老子が説くところの闇の力です。