16・アメリカでのケース 50年代から現代まで
日本に先んじて動物化社会となったアメリカがその後どうなったのか、参考になるよう振り返ってみると、豊かできらびやかな紳士淑女の50年代の次に、学生運動の60年代が始まります。
そしてヒッピー・ムーブメントの70年代から、湾岸戦争の90年代が訪れ、そして2000年代にはあのテロが起きます。
このうち、50年代の貴族的社会から60年代の民間での活動の活性化は、まるでフランス革命に働いていた熱と同種の物のように感じられます。
その熱源は、フランシス・フクヤマの言った歴史の終息に向けたムーヴメントのようにも感じますし、また、空虚な黄金社会への危機感からくる反動のようにも感じられます。
それは、70年代にヒッピー運動にそのままつながっていると思います。
フランス革命後の民衆が、神から解き放たれた後の自分たちの姿に幻滅して動揺していったように、黄金社会の後のアメリカでも、精神の空白化に切迫した若者たちが次の時代の支柱を求めていたのがヒッピー・ムーヴメントだと思います。
ドイツ、フランスの哲学が東洋思想に答えを求めた如く、ヒッピーたちも禅やヨガ、カンフーなどに答えを求めます。
しかし、結局はそれらはただのオカルト的東洋趣味に逃避したという域を超えることは少なく、ストレッチと区別のつかないフィットネスとしての取り入れただけのヨガや、映画を観て自分で発明したカラテやカンフーにとどまったり、意味の分からない漢字の書かれたTシャツを来ておしゃれを気取ると言った表層の物として東洋諸国の失笑を買いました。
笑いごとで済まないのは覚せい剤の問題で、合理主義が生育環境の根幹にある彼らは、LSDが禅での瞑想時と同じ状態を作ると言い出して中毒者になったり、大麻もまた同じくとして吸引から生成、販売に至ってただの下層の犯罪者に成り下がる者らも続出しました。
ここに、前述の危険性「オタク」「オカルト」「癒し」への安易な移行が見えます。
この三つに共通するのは、どれも本物ではないということです。
少なくとも、教会主導社会において確かに人々を先導していた神という概念に変わるほどの真に迫った力は存在していません。真実の劣悪なまがい物でしかないのです。
それでもアメリカにはもう一つのベクトル「歴史の終息」に向かう力が働いていました。それは80年代に再び豪奢な消費社会を築き上げ、そして冷戦の終了のあとで大いなる停滞に向かいました。
「停滞とはすなわち退行なのだ」とはニーチェの言葉です。歴史は終わり、その熱がひっそりと消えてゆく中、それでも育った巨大消費社会を維持しなければいけないため、アメリカは減速のできない経済闘争を繰り広げてゆかなければなりませんでした。
その産油経済闘争の結果起きたのが、湾岸戦争であり、911の同時多発テロ事件です。
日本では、アメリカに遅れること30年、80年代に入ってからアメリカ50年代の憂鬱が訪れました。
しかし、この国での若者にはもう歴史参加者としての闘争がありません。90年代にも実は学生闘争は続いていましたが、大きな社会問題になるようなものには広がりませんでした。
なぜなら歴史はもう終わっており、学生運動もまた、形式的なそれまでの反復に過ぎなかったからです。コジェーヴの言う日本的な反復が皮肉にもここにも作用していました。
17・ラカン なぜ動物化が起きたのか
ではなぜ、欧米社会と戦後そのフォロワーとなった日本では、このように同じ現象が起きて行ったのでしょうか。
ここでもう一度、いち早く神の不在を追及して東洋に目を向けたフロイト先生に立ち返って見ましょう。さあさあ、長かったこの稿ですが、そろそろ風呂敷を畳に入りますよ。
フロイト先生の中核思想は、オイディプス・コンプレックスでした。
生まれたばかりの子どもが物心がついたばかりの心理で自覚するのが、自分は親によって支えられている不完全な存在であるということです。
つまり、母親の互助という一体化によってはじめて存在活動(ご飯を食べたり排泄をしたり)が成り立つものです。
よって、母親と常に一体化することで完成された存在になりたいという願望を当然持ちます。
なので、本当に幼い子供は服を着替えるのも親にしてもらおうと欲求します。
しかし、その母体との一体化による完全さの欲求には限界が生じてきます。そこで次にシフトする願望が、父親のように独立した自己となって行こうというものです。そのため、無意識状態の幼児から自我が芽生えてきた幼児に成長すると、母親がボタンを留める手を貸そうとすると嫌がって自分ですることにこだわりだします。
これがつまり、大きな存在に支配されて成り立つのではなく、自分で自分を支配してゆきたいという独立心、自律心の始まりです。
この欲求はやがて、一人でご飯を食べたい、一人で出かけたい、一人で自転車に乗りたい、逆上がり、水泳、お泊りと、次々に対象を変えて拡大されてゆきます。
生きている限り欲求の止まることはなく、これは無限に続きます。
しかし、そのうちにある特異点に当たります。それが「死への欲動」です。
通常の欲動というのは、食べる、眠る、性交するなど、本質的には命の継続につながるものです。もちろん、誤って毒性のあるものを食べてしまうというようなことで結果的に命が揺らぐことはありますが。
この「死への欲動」というのは、生命活動につながらない欲求を言います。決して自殺願望という意味ではありませんのでご注意を。
これをするためには死ぬかもしれないがそれでもするというようなこと、命をかけて行う挑戦、また、ほぼ死ぬであろうがそれでもそれが自分が生きた証なのだと思われるようなことが「死への欲動」です。
これを言及したのがフロイト復興の思想家ラカンです。
ラカンはこれを「享楽」と呼びました。
これによって人々は、命をも超えた大きな物とつながっているという手ごたえを得るのだ、と彼はみなしました。
つまり、これこそがかつて神がもたらしていた命の手ごたえです。
この考えは永遠を求める欲求であり、歴史に参加していれば自分が死んでもその意味は残ると説いたマルクスや、強い意志をもって永遠を生きる人間になることを説いたニーチェ君と通じるものです。
人類史における偉大な人物とは、そのような欲動の成功者のことです。発明家、歴史上の英雄、芸術家、みな単純な生存時間を超えた命の価値を生命の外に見つけ出した人々です。
これまで長々と神という支柱が失われた後の人々の精神の空白をめぐってたくさんの哲学者の思想をなぞってきましたが、結論としてそこで失われ、獲得が求められていた物はこの「死への欲動」なのです。
そして、動物化とはつまり、これを持たないということです。
ではなぜ「死への欲動」は失われてしまったのでしょうか。
これまでに書いたことをまとめると以下の3点です。
1・神の不在。
2・物質的に満たされた社会という前提(黄金社会、命が継続するのが当たり前という前提)。
3・歴史の終焉。
つまり、生まれつき与えられた使命はなく、生き延びることに精いっぱいでもなく、参加すべき歴史はすでに終わってしまっている。
やるべきこともやることもないというのがこの状態です。
ヘーゲルのみたように我々は我々自身をもって我々の生を満たしてゆかねばならないのです。ニーチェ君の力みかえった熱弁のように。
属に、物事を推進するには追い込みと引き寄せが効果的だと言います。飴と鞭ですね。ですが、上記の状態にはどちらも存在しません。
哲学者は、どうして「死への欲動」に突き動かされて思想を突き詰めてきたのでしょうか? それは、神がいないからです。
古代ギリシャの時代において、すべてが神の仕業とされていた物を、そうではなくて神の存在を除いた別の方向で考えてみようよ、と言って始まった物の考え方のことを哲学と言います。
つまり、科学も芸術も哲学の一派でした。
科学が発展すれば治療や生活環境の向上など、命の継続に続きます。芸術が発展すれば文化が進展してゆきます。
つまり、真実の追求というのは上記2の前提が成り立つまではまぎれもなく必要で有意義なことだったのです。
その推進力が現在では失われました。
そして、歴史は終わりました。
つまり、オイディプス・コンプレックスは、終生を通した課題ではなくなったのです。
真実はもう必要とされなくなったのです。
かくして人類の歴史は、神という父に対するオイディプス・コンプレックスの克服から始まり、それがなされたことで終わりました。
誰かが獲得した真実の恩恵で十分に黄金社会を生き残れる人々は、自ら真理を追究する必要はなく、神の偽物である代替物のみを消費して生きてゆくことが安易な選択としてなされるようになりました。
それが「オタク」「癒し」「オカルト」です。
つづく