中国武術には色々な段階があるのですが、大きく言うと表象の形の段階や得勁の段階のような物があります。
表演武術というのはこの形式の段階が独自進化した(させられた)物でもはや武術とは言えないパフォーマンスの段階に行ってしまった。
勁の段階では、もちろん用勁を学んでここで中国武術的な力が初めて理解に至る訳ですが、これが日本では大きな誤解の元になっているようです。
別の武術の勁や創作した物を関係ない武術の形に当てはめた独自研究の成果を喧伝する偽物武術家が非常に多い。
また多くのオーディエンスもそれを真に受けてしまいます。
こうして虚構や誤報ばかりが広まってしまって言っています。
本物の伝統中国武術であるなら、いわゆる外家拳でもきちんと発勁があります。
正しく形を行えばだいぶんそれらが分かります。
もちろん、その形に力の遣い方がありますので、きちんと学ばないとならないのですが。
そのようにして正しく勁を用いて人を打つと言うことは、ただ遠心力や体重、瞬発力を用いて人を殴るのとは全く違います。
ここが分からないと、単に変わった撲り方をしているだけのことを発勁だなどと言い出してしまう。
特に寸勁などはすでに偽物の方がメジャーになってしまって、本来の言葉の意味とは関係が無くなってしまっているという気さえします。
皆さん、中国武術の伝承者じゃない人が「これが寸勁だ」ってやってみせるの、全部偽物ですからね。
たとえどんなにびっくりするようなことが仮にできたとしても、それは単なる癖の強いパンチです。騙されないようにお気を付けを。
さて。そのように、勁が出来た出来ないというのは、これは本当に不幸にして低レベルな話で、ここは出来て当たり前の段階です。
その後のお話がこの数年の私の課題です。
それを求めてタイに行ったり鍼灸学校に入学したりしています。
その段階とは、点穴の段階です。
ツボを突いて相手の生死に作用させるのがこの点穴という物です。
ツボを突いて相手の病気を治して健康にするというのは良く聞くお話です。これは元々漢方医学の文化圏であった日本ではさほどあやしむには至らないように感じられますが、他文化圏ではそうではありません。
私がハイティーンだった80年代では、肩こりは日本人しかならないと言う俗説が当たり前に広まっていました。
アメリカなどでは「筋肉疲労だ」などと言ってそれが凝りであるという概念が無かったのですね。
もっと前の60年代では、そもそも黄色人種以外に気功の概念が適応するのかさえ確認されていませんでした。
解剖学的にまったく違う生き物である可能性が検討されていたのですね。
しかしいまでは、気功の理論に則った漢方や鍼灸、瞑想などが当たり前に行われています。
先人たちの研究の成果に感謝を禁じえません。
この、ツボを突いて体調に影響を与えると言う概念を、負の方向に働かせたのが武術で言う点穴です。
病気を治して健康に出来るのなら、健康な人間を病気にも出来るだろう、ということで中国武術では長きにわたってこれが高級段階の技法とされてきました。
もちろん、そういう物ですので人体における陰陽理論に見識がないとおこなえません。つまりは治せる程度のレベルでないと病気にもさせられない。
ですので、ただ殴るわ蹴るわのレベルではこれは難しい。
この点穴、一般には四つのツボを用いると言われています。
もっとも一般的な効果があるのは暈穴と呼ばれるツボで、突かれると昏倒してしまうと言います。
これは実際に生理学的な機序でも解明できる物で、それほど不思議とは言えない気がします。
また、麻穴と言って突かれると麻痺してしまうツボがあるのですが、これもなんとなくそういうことも普通にあるような気もします。
不思議な物の一つは唖穴で、突かれると声が出なくなると言われています。
軽くだったら逆に声が出るとのことで、私も突かれた時には自然に「ア!」と声が出たと言う経験があります。
昔の人は識字率が低いので、話せなくなったら何をされても人に伝えることが出来なくなりますので、これは非常に恐ろしい物だったのでしょう。
そして最後が死穴です。
これは突かれると死んでしまうと言う物なのですが、その機序はツボやその組み合わせによってまちまちです。
ただ即死するだけならいわゆる急所だというお話なのですがそんなことではなく、やはり体内の気の陰陽を崩して病気に至らせて死に追いやると言うのです。
先日、黄帝内経を読んでいてこの機序を発見しました。
もともと、気の調和と不調は一つの現象の裏表なのである意味では黄帝内経自体が悪用すれば人を病気にする術の集大成だとも言えるのですが、そのことについてきちんと明言している部分に出くわしたのです。
取穴一つで人を生かすことも殺すことも出来るとありました。
これは木簡時代の書物ですので、恐らくは現存する武術の中の点穴術のルーツはここであると言っても良いのではないでしょうか。
こういう文化的背景の裏を取るために、私はいまも学び続けているのです。
解剖学的な運動のお話だとか、そういう表面的なことを求めている訳ではないのです。
本物の伝統武術家は、こういうところを研究して保存し、次世代につながないと。
なにせ運動だけならあらゆる人間に検討が可能ですが、伝統武術の内側のことは伝統武術の内奥に入った人間にしか研究が出来ないのですから。