飽食の大量消費時代に育ったせいか、私にはどうにも生まれつき欲求が薄いところがあるようでした。
幼少期には人並みにあれが欲しいこれが欲しいがあったのですが、子供のなりに世の中を観て育ってゆくうちに、これはどうも世の中を悪くしたり驚くほどの邪悪さを生み出しているのはくだらない人間の欲だなあ、ということが感じられてきました。
また同時に、この社会と言うのがそういう邪さ、いびつさや矮小さによって成り立っていることにも多々直面してきて、そういう物に対してとても忌避感を抱くようになってしまった。
お金を求めることに対してなりふり構わず必死になれない。
名声欲も出世欲もない。
物欲が自分を幸せにするなんて思えないし、性欲もしかり。
食べ物はそんなに入らないし沢山食べればすぐに苦しくなってしまいます(牛丼並盛が私には多すぎる)。
こうなると、この社会で幸せになるのがとても難しい。
私の20代と言うのはそういう物でした。
最低限の生活費だけ稼いで、最低限のことだけして暮らしたい。いまでこそミニマリストとして言語化されていますが、そういうライフスタイルが当時は認知されていませんでした。
なので私は、そういう風に育った人間がどのようにして生きていけば良いかというロールモデルも得られず、いつも困り果てていました。
生きてゆきたいという強い動機がないまま、貧困社会を生きるのはとても苦しい物です。
余命宣告をされているのに毎日拷問を受けているみたいなもので、出口がどこにもありません。
終わるまでただ一方的にぼこられているだけの人生です。
俗世を捨てて僧になるのがよさそうだと思っていたのはその辺りの頃です。
しかしのちに、師父に出会って世の中の自分が面白いと思える面を見つけられるに至って、自分には真理欲求と言う物があることが分かってきました。
他の多くの人たちの、名声欲、物欲、金銭欲のような物と同じくらいに生きるための牽引力となる欲求として「真実を知りたい」という欲がとても強くあったのです。
というか、元々その欲が強かったから、真理に繋がっていない上述の表層的な欲に対して夢中になれなかったというのが機序なのでしょう。
その、自分にとっての正欲を見つけられた時から、私は自分の生きる方向が見つけられました。
自分の魂が求める物と見つけられるとは幸いなことだといまでは思っています。
自己を相対化し、外の世界と良く調和する道を求めること。
これがタオの思想ですね。
つまり、その行が気功であり、中国武術です。
何も求める物が無くてつまらなかった私が、それでも自分が面白いと感じているのは何かと突き詰めた結果、いまでは毎日世界の面白さを繋いで生きていられている。
この腐敗した世の中で、これで救われる人って実は潜在的にすごく沢山いるのではないかと思っているのです。